優等生との出会い
彼女は必死に震える唇を噛み締めて嗚咽を堪えていた。
街灯に照らされた彼女の小さな肩が小刻みに震えている。
俺は自分の犯した罪の重さにただ立ち尽くすことしかできなかった。
手を伸ばしてその涙を拭う資格なんて今の俺にはあるはずがない。
「……結愛さん」
沈黙を破るように美咲ちゃんが震える声でぽつりと呟いた。
「いや……お姉さんと仲良くするのはとてもいい事だとはわかっている」
彼女は涙で潤んだ瞳で俺を真っ直ぐに見つめ返してきた。
そこにあったのは純粋な悲しみと明確な拒絶の色だった。
「けどさ……キスはおかしくない?」
痛いほどの正論が静かな夜の空気に溶け込んでいく。
「やっぱそんな関係……普通じゃないよ」
その言葉は俺の胸を鋭利な刃物のように深くえぐり取った。
結愛の狂気に満ちた密室でいつの間にか倫理観を麻痺させられていた俺の異常性。
それを美咲ちゃんはたった一言で正確に突き刺してくれたのだ。
俺たちはただの狂った姉弟のまま決して越えてはいけない一線を越えてしまった。
もう健全な恋人同士の世界には戻れないという決定的な宣告だった。
美咲ちゃんはそれ以上俺を責めることはしなかった。
涙を拭うこともなくただ静かに踵を返して背を向ける。
そして公園の出口へ向かってゆっくりと歩き出した。
俺は手を伸ばすことすら許されないままその小さな背中を見送っていた。
待って、というたった一言が喉の奥で張り付いてどうしても声にならない。
今ここで彼女を引き留めて、一体何と言い訳をするというのか。
狂った義姉から身を守るために自ら抱きしめてキスをしたなんて、そんな言い訳はさらなる軽蔑と絶望を生むだけだ。
パタパタという彼女の足音が深夜の静寂に吸い込まれていく。
俺は一人暗い公園にポツンと取り残された。
風が火照った体を容赦なく冷ましていく。
終わらない夏休みはまだ始まったばかりだというのに俺は一番大切な人を完全に失ってしまった。
ポケットの中でスマホが鉛のように重く沈黙している。
見上げた夜空には星一つ見えずただ重苦しい闇が広がっていた。
やがて美咲ちゃんの小さな背中が深夜の闇に完全に溶けて消えた。
俺は一人で公園の入り口に立ち尽くしている。
どれくらいの時間が経ったのかもわからない。
ただ空っぽになった胸の奥に冷たい風が吹き抜けていくのを感じていた。
ポツリ。
頬に冷たい水滴が当たった。
それは涙ではなかった。
見上げると星一つない真っ暗な空から大粒の雨が落ちてきていた。
夏の夜の気まぐれな通り雨などという生易しいものではない。
それはあっという間に激しいゲリラ豪雨へと変わり静まり返った街を容赦なく打ち据え始めた。
ザアアアアッという暴力的な雨音が周囲の音をすべて掻き消していく。
まるで俺の犯した最低な罪を天が嘲笑い罰を与えているかのようだった。
着ていた服は一瞬でずぶ濡れになり冷たい雨水が肌に張り付く。
雨宿りをする気力すら今の俺には残っていなかった。
「……っ」
俺は糸が切れた操り人形のようにその場に膝から崩れ落ちた。
アスファルトの水たまりに両手をつきうなだれる。
俺は何をやっているんだ。
一番大切にしなければならないはずのたった一人の女の子をあんなにも深く傷つけて。
狂気に満ちた義姉に屈して自らその唇を奪って。
結局俺は誰のことも守れず自分自身の尊厳すら手放してしまった。
すべてが手遅れだ。
「あ……ああ……」
喉の奥から獣のようなうめき声が漏れ出す。
「うわああああああああっ!」
俺は真っ暗な空に向かって叫んだ。
ありったけの後悔と絶望を込めた俺の慟哭は激しい雨音に無残に掻き消されていく。
誰の耳にも届かない孤独な絶叫。
冷たい雨水が顔を伝い俺の流す情けない涙と混ざり合って地面の泥水へと溶けていった。
終わらない夏休みの始まり。
すべてを失った絶望と冷たい雨が俺の体温を容赦なく奪っていく。
だが不意に頭上を叩きつけていた暴力的な雨音が遠ざかった。
代わりにパチパチと傘の布を打つ規則的な音がすぐそばから聞こえてくる。
俺の体にはもう冷たい雨粒は落ちてきていなかった。
ゆっくりと顔を上げると俺の頭上に一本の傘が差し掛けられているのが見えた。
「大丈夫ですか」
雨音に負けない凛とした涼やかな声が上から降ってきた。
振り返るとそこには一本の傘を俺に傾け、自分自身の肩を雨に濡らしている見知らぬ女性が立っていた。
暗がりの中でもその服装だけははっきりと認識できた。
見慣れたデザインの夏服。
間違いないうちの高校の制服だ。
だが、俺の記憶のどこを探してもこんな夜更けに一人で歩いている彼女の顔には全く見覚えがなかった。
「こんな雨の中で座り込んでいたらすぐに体調を崩してしまいますよ」
彼女はひどく整った顔立ちで感情の起伏をあまり感じさせない静かなトーンでそう言った。
背筋がピンと伸びたその佇まいは絵に描いたような優等生そのものだった。
「あ……あんたは……」
泣き腫らした掠れ声で俺が尋ねると彼女は静かに一礼した。
「私は佐倉と申します。あなたと同じ高校の生徒ですよ?夏休み中ですが学校へ勉強しに行っておりました。その帰り道です」
佐倉と名乗った彼女は淡々とそう自分の状況を説明した。
いくら優等生とはいえこんな夜まで学校で勉強して帰ってくるなんてどう考えても普通じゃない。
だが、今の俺には彼女の不自然さを指摘する気力すら残っていなかった。
「傘……いいよ。俺はどうせ、もうずぶ濡れだから」
俺が力なくそう言って再びうなだれようとしたその時だった。
「そういう問題ではありません。自暴自棄になっている人間を見過ごすことは私の良心が咎めますから」
彼女は優等生らしい理路整然とした口調で俺の拒絶をピシャリと撥ね退けた。




