絶望の風
深夜の公園のベンチに二人で腰を下ろした。
美咲ちゃんは俺のスマホでメイド服の写真を満足そうに眺め終わるとふうっと息を吐いた。
夜風が彼女の髪を揺らしシャンプーの香りがふわりと漂う。
それは結愛の甘くて重い香りとは違う、どこか安心する爽やかな香りだった。
「ねえ湊くん」
美咲ちゃんが夜空を見上げながらぽつりと呟いた。
「なんだか夏休みが始まったばかりなのに、全然日にちが経ってない気がしない?」
その言葉に俺は心の底から深く激しく同意した。
「……本当にそうだな」
義理の姉だと思っていた結愛の重すぎる愛情に振り回され、雪乃宮さんの非論理的な奇行に巻き込まれた。
そしてメイド服からの簡易監禁、そして衝撃の異母姉弟カミングアウトからのキスだ。
これだけの濃密すぎるイベントをこなしているのにカレンダーの上ではまだ夏休みは序盤も序盤なのだ。
俺の精神力とHPはすでに限界を突破してマイナスに突入しているというのに。
「まだまだ夏はこれからなのにね」
美咲ちゃんは隣で楽しそうにくすくすと笑った。
「これからお祭りもあるし海にも行きたいし……あ、コスプレの衣装も買いに行かなきゃ!」
彼女の頭の中はこれからの楽しい夏休みの予定でいっぱいのようだ。
俺の隣で無邪気に笑うその横顔を見ているとさっきまでの密室の狂気が嘘だったかのように思えてくる。
「そうだな……いろいろ行こうな」
俺は引きつりそうになる頬を必死に持ち上げて彼女に笑い返した。
だが俺の背中には義姉という絶対に逃れられない爆弾が張り付いているのだ。
この平穏な時間がいつまで続くのか。
「お祭りには絶対一緒に行きたいな」
美咲ちゃんは夜空を見上げたまま弾むような声で言った。
「りんご飴食べて、金魚すくいもして。あとはまた海にも行きたいし、花火大会でしょ?あ、もちろん私の家で映画鑑賞会もするよ!」
彼女の口からはこれからの夏休みにやりたいキラキラとした予定が次々と飛び出してくる。
そのどれもが平和で暖かく俺が本来思い描いていたはずの健全な青春そのものだった。
隣で無邪気に笑う彼女の横顔を見つめながら俺の心の中にあった暗い霧が少しずつ晴れていくのを感じていた。
冷たい夜風に吹かれて完全に冷静さを取り戻した俺の脳裏にふと先ほどの密室での出来事が蘇る。
『お父さんは私のお母さんを孕ませて……』
結愛が語ったあの衝撃的な言葉。
俺たちに血が繋がっているという絶望の告白。
しかし落ち着いて考えてみればあの話には決定的な矛盾があった。
親父と義母さんがもし本当にそんな修羅場のような過去を持っていたのなら再婚の時の親戚同士の顔合わせであんなに和やかな空気になるはずがない。
つまり俺と結愛は正真正銘ただの義理の姉弟だ。
お互いの父親は全くの別人であり血の繋がりなど一切ない。
あの密室で結愛が語った悲劇は俺の倫理観と抵抗を完全にへし折るためについた悪趣味で狂気的な冗談だったのだ。
俺を支配するためならあいつはあんな恐ろしい嘘さえ平気で吐くのか。
その事実に気づいた瞬間俺は別の意味で背筋が凍るのを感じた。
だが同時に血の繋がった姉弟という最悪の呪縛がただの嘘だったとわかったことで俺の心は劇的に軽くなっていた。
「湊くん?どうしたのぼーっとして」
美咲ちゃんが不思議そうに俺の顔を覗き込んでくる。
「いや……なんでもないよ」
俺は首を横に振り彼女の眩しい笑顔に向かって今度こそ心からの笑みを返した
「あ、もうこんな時間!」
美咲ちゃんが手首の時計を見て、驚いたような声を上げた。
深夜の公園の静寂が、彼女の声で弾ける。
「楽しい時間はあっという間だね。……じゃあ、また明日ね、湊くん」
彼女はベンチから立ち上がり、俺に向かって満面の笑みを浮かべた。
俺も慌てて立ち上がる。
彼女の純粋な笑顔を見ていると、今夜俺の身に起きた狂気の手触りが、まるで遠い夢の出来事のように思えてくる。
「ああ、気をつけて帰れよ」
俺がそう言葉をかけた、その瞬間だった。
ギュッ
美咲ちゃんが不意に俺の胸に飛び込んできた。
「えっ……?」
俺の体が一瞬で硬直する。
彼女の華奢な体が、俺の全身に無邪気な温もりを伝えてくる。
柔らかい髪が俺の顎に触れ、爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
結愛のあの重くて甘い、俺を絡め取るような抱擁とは全く違う。
ただ純粋に俺が好きで、離れがたくて、明日への期待を込めた暖かくて軽いハグ。
「湊くん、大好きだよ。……おやすみ!」
美咲ちゃんはすぐに俺から離れると、顔を真っ赤にしながら、でも幸せそうに笑って手を振った。
「お、おやすみ……」
俺は自分の唇に残る結愛の感触と、今彼女から受け取った温もりの間で強烈な罪悪感に押しつぶされそうになっていた。
手を振る美咲ちゃんに背を向け、俺は公園の出口へと歩き出した。
足取りは鉛のように重い。
結愛の告白が俺を支配するための真っ赤な嘘だと気づけたことで、最悪の呪縛からは逃れられた。
でもだからといって俺が彼女の唇を奪い、自らも応じてしまったという事実は消えない。
美咲ちゃんはあの女装写真を可愛いと喜んで、これからの夏休みに向けて目を輝かせている。
そんな彼女の純粋な信頼を俺は裏切ったままでいいのか。
公園の入り口に差し掛かったところで俺は立ち止まった。
夜風が俺の火照った顔を冷たく撫でる。
このまま家に帰れば、明日からまた何事もなかったかのように彼女と笑い合えるかもしれない。
だが、俺の心の中にある秘密はいつか必ず彼女を傷つける毒になる。
俺はゆっくりと、でも確かな意志を持って背後の公園へと振り返った。
街灯の下、まだそこに立ち尽くして俺を見送っていた美咲ちゃんの方へ俺は再び向き直った
彼女は街灯の下で不思議そうに小首を傾げて俺を見ていた。
その純粋で濁りのない眼差しが俺の胸を容赦なく刺し貫く。
隠し通すことなんて絶対にできない。
こんなに真っ直ぐに俺を信じてくれている彼女を騙し続けるなんて。
俺は鉛のように重い足を引きずりながら、再び彼女の目の前まで戻った。
「湊くん?どうしたの忘れ物?」
美咲ちゃんが首を傾げて無邪気に笑いかける。
俺は下を向いたまま、両手を強く握りしめた。
全身からじわじわと嫌な冷や汗が噴き出してくる。
「あのさ」
絞り出した声は自分でも驚くほど掠れていた。
「俺、結愛とキスした」
静まり返った公園に俺の最低な告白が落ちた。
美咲ちゃんの笑顔がピクリと凍りついた。
「は……?」
彼女の大きな瞳が信じられないものを見るように激しく揺れ動く。
空気が一瞬にして冷たく重いものに変わった。
「ふ、ふーん。そうなんだ」
美咲ちゃんの声は明らかに震えていた。
彼女は必死に頬を引きつらせて無理やり笑顔を作ろうとしている。
「でもお姉さんの方からでしょ?家族のスキンシップとしてさ……」
それは彼女の心が完全に壊れてしまわないための無意識の防衛本能だった。
俺が義理の姉に無理やりキスされたのだと必死に自分に言い聞かせて俺を許そうとしてくれているのだ。
その痛ましい姿を見て俺はさらに自分の罪の深さを思い知った。
ここで頷けば彼女は自分を誤魔化してこのまま俺の隣にいてくれるかもしれない。
だがそれは結愛の狂気に屈して自分から口付けたという最低な事実からの逃亡だ。
これ以上彼女の純粋さに甘えて嘘を重ねることだけは絶対にしてはいけない。
俺は彼女の震える声を遮るように短く息を吸い込んだ。
「違う」
美咲ちゃんの言葉がピタリと止まる。
俺は逃げることなく彼女の揺れる瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「俺からした」
深夜の街灯の下で俺の放った言葉は取り返しのつかない残酷な真実として彼女の心に深く突き刺す
深夜の公園に重く響き渡った。
美咲ちゃんの顔から必死に取り繕っていた笑顔が完全に剥がれ落ちる。
彼女の大きな瞳が信じられないものを見るように見開かれた。
「な、なんなの、それ」
震える声が静寂を切り裂く。
彼女の唇は微かに震え言葉の続きを探すように宙を彷徨っていた。
美咲ちゃんは一歩後ずさりぎゅっと両手を胸の前で握りしめた。
そして俺の顔を真っ直ぐに見つめてくる。
その瞳には微かな光が宿っていた。
何かを期待しているようなすがるような光。
嘘だと言ってほしい。
脅されて仕方なくやったのだと言ってほしい。
本当は私だけのことが好きなんだと今すぐ抱きしめて否定してほしい。
彼女の痛いほどの願いがその視線から痛烈に伝わってきた。
俺だってそう言ってやりたかった。
結愛の狂気に追い詰められてカッターを突きつけられて倫理観を崩壊させられたのだと。
そう言い訳をして彼女の優しさに甘えきってしまいたかった。
だが俺が自ら義姉の唇を奪い、その背中を抱きしめたという事実は決して消えない。
その時の俺は確かに自分の意志で彼女の狂気に身を委ねてしまったのだ。
どんな事情があろうとも美咲ちゃんを裏切ったという事実に変わりはない。
だから俺は彼女のすがるような瞳を見つめ返し深く頭を下げた。
「ごめん」
俺の口から出たのはただその一言だけだった。
言い訳も嘘も一切ない最低で残酷な真実の肯定。
その瞬間、美咲ちゃんの瞳から期待の光が完全に消え失せた。
代わりに溢れ出したのは大粒の涙だった。
ポロポロと音を立てるようにして彼女の白い頬を濡らしていく。
深夜に吹く風がかつてないほど冷たく俺の体を貫いた。




