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噛み合わない夜

 再び重なり合っていた唇をゆっくりと離す。


 俺は結愛の背中に回していた腕を解き荒い呼吸を整えながらベッドから立ち上がった。


 シーツの上に横たわる彼女の熱と甘い香りがまだ俺の全身にこびりついている。


 自ら義姉にキスをしてしまったという事実。


 それは結愛の狂気を一時的に鎮めるための苦肉の策だったとはいえ俺自身の心を深く抉っていた。


 ベッドの上では結愛が満足げな笑みを浮かべたまま俺を見上げている。


 俺は逃げるようにしてドアへと向かった。


 震える手で内鍵の錠を回す。


 カチャリという小さな音が密室の終わりを告げた。

 ドアノブに手を掛けたその瞬間だった。


「待って、湊くん……」


 背後からシーツが擦れる音と共に結愛の引き留める声が聞こえた。


 俺はドアノブを握りしめたまま立ち止まる。


 またあのカッターを持ち出されて部屋に引きずり戻されるのではないかという恐怖が背筋を過った。


 しかし俺の背中に向けられたのは刃物のような狂気ではなかった。


「……ううん」


 結愛は小さく首を振るとベッドの上で自分の唇を指先でそっとなぞった。


「今日はここまでもいっか」


 その声には圧倒的な余裕と独占欲が満ちていた。

 俺から自発的にキスをしてきたという事実が彼女の心に何よりも強い安心感と優越感を与えたのだ。


 これ以上俺を無理に部屋に閉じ込めておく必要はないという完全な勝利宣言だった。


 「おやすみなさい湊くん」


 結愛のチアフルな笑顔が背後から俺を見送る。

 俺は何も答えることができず逃げるように自室のドアを開けて廊下へと飛び出した。


 バタンとドアを閉め壁に背中を預けてズルズルと座り込む。


 密室の恐怖からは解放された。


 だが俺の唇には結愛の感触がはっきりと残っている。


 決して越えてはいけない一線を越えてしまったという重い十字架。


 そしてポケットの中で沈黙を続ける美咲ちゃんへの取り返しのつかない罪悪感。


 荒くなった呼吸が少しずつ落ち着いてくる。

 しかし心臓の鼓動だけは警鐘のように激しく鳴り止まなかった。


 ポケットの中でずっと重みを放っていたスマートフォンを取り出す。

 画面をつけるとあのトーク画面がそのまま残っていた。


 既読スルーされたままの誤爆写真。


 そして先ほど自ら義姉の唇を奪ってしまったという消えない罪悪感。


 俺は震える指先で文字を打ち込んだ。


『美咲ちゃん』

『今会える?』


 送信ボタンを押す。

 深夜のこの時間に突然呼び出すなんて非常識なのはわかっている。

 それでも俺はどうしても今すぐ彼女に会わなければならなかった。


 この汚れた心のまま明日を迎えることなんて絶対にできない。


 数分間の永遠にも似た沈黙。

 やがて画面に『既読』の文字がつき、短い返信が届いた。


『電話じゃ駄目?』


 その文字から美咲ちゃんの戸惑いと悲しみが痛いほど伝わってくる。


 夜中に会うのをためらっているのか。


 それともあの写真のせいで俺の顔を直接見るのが怖いのか。

 彼女の心に大きな傷をつけてしまった事実が俺の胸を容赦なく抉る。


 文字で誤魔化すことも電話越しに声だけで謝ることも今の俺には許されない。

 俺はスマホを両手で強く握りしめた。


『ごめん』

『でも直接会って伝えたいんだ』


 迷いを断ち切るようにその言葉を送信する。

 俺はもう美咲ちゃんから逃げない。


 自分の犯した過ちも結愛の狂気もすべてを背負った上で彼女と真っ直ぐに向き合う。

 俺はスマホをポケットに突っ込み静かに立ち上がった。


 深夜の静まり返った街を俺は全力で駆け抜けた。


 肺が焼け付くように痛い。

 それでも足をとめることなんてできなかった。


 待ち合わせ場所に指定した近所の公園が街灯の光に照らされて見えてくる。


 息を乱しながら入り口に飛び込むとブランコの横に小さな人影があった。


 美咲ちゃんだ。


 怒っているだろうか。

 それとも呆れて泣いているだろうか。


 最悪の事態を覚悟して俺は重い足取りで彼女の背中に近づいた。


 「あ、湊くん!」


 俺の足音に気づいた美咲ちゃんが勢いよく振り返った。

 その顔を見て俺は完全に呆気にとられてしまった。


 暗い表情なんて微塵もない。

 むしろ彼女はパッと花が咲いたような満面の笑みを浮かべていたのだ。


「美咲ちゃん……?」


 俺が戸惑いながら名前を呼ぶと彼女はタタタッ、と小走りで駆け寄ってきた。


 「遅いよー!もう待ちくたびれちゃった」


 美咲ちゃんは全く怒った様子もなく弾むような声で言った。

 夜中に呼び出された不満もあの誤爆写真への嫌悪感もそこには一切見当たらない。


 まるでこの深夜の密会を心から楽しみに待っていたかのような元気さだった。


「こんな時間にこっそり会うなんてなんだか冒険みたいだね」


 悪戯っぽく笑う彼女の姿に俺の頭の中は完全にパニックに陥っていた。


 既読スルーは一体なんだったんだ。


 俺があんなに変態女装野郎だと思われることに怯えていた時間は何だったのか。


 拍子抜けするほどの明るい反応。


 だがその純粋で真っ直ぐな笑顔を見れば見るほど俺の胸の奥はズキズキと激しく痛み始めた。


 俺の唇にはまだ結愛の甘い感触と狂気がこびりついている。


 こんなにも俺の到着を無邪気に喜んでくれている本命の彼女。

 そんな彼女を俺はたった数十分前に密室のベッドの上で裏切ってしまったのだ。


 俺は全身の力が抜けていくような、奇妙な感覚に包まれていた。


 女装写真の誤爆。

 結愛とのキスの罪悪感。


 それらを必死に背負って深夜の街を走ってきた俺の決意は、彼女の笑顔の前に完全に宙に浮いてしまった。


「……美咲ちゃん?」


 俺が戸惑いながら名前を呼ぶと、彼女は俺の顔を覗き込み、さらに笑顔を深めた。


 「湊くん、あの写真……すっごく可愛かったよ!」


 美咲ちゃんは自分のスマホを取り出し、誤爆された俺のメイド服姿の写真を画面に表示させながら、目を輝かせ始めた。


「え……? 怒って……ないの?」


 俺の言葉に、美咲ちゃんはキョトンとした顔をした。


「怒る? なんで? あんなに可愛い写真、久しぶりに見たよ!」


 彼女のテンションは斜め上を向いて暴走し始めていた。


「実はね……可愛すぎてどう返信していいかわからなかったの! ずっと眺めてたんだよ!」


 美咲ちゃんは俺の手を握りしめ、興奮した様子で喋り続ける。


「実は私、コスプレとか、男装とか女装とか……そういうの見るのもやるのも、大好きなんだ!」


「え?」


 俺の思考が再び停止した。

 美咲ちゃんが? 清楚で普通の可愛い彼女だと思っていた彼女が?


「私、男装して湊くんと一緒にデートするのが夢だったの! 湊くんが女装してくれるなら、これ、最高のカップルじゃない?」


 彼女の瞳には、これまで見たこともないような熱が宿っていた。


「今度は私が湊くんのメイクしてあげるね! ウィッグも私が選ぶから!」


 俺は、自分の女装が結愛によって強要された事故だと言い出せないまま、ただコクコクと頷くことしかできなかった。


 美咲ちゃんのカミングアウトによって、女装問題は最悪の形?で解決してしまったのだ。


 だが、俺の胸の奥には、結愛とのキスの感触が、重く、甘く、冷たく残っている。


 美咲ちゃんが楽しそうに「次回のコスプレデート計画」を話す横で、俺は別の種類の冷や汗を流し続けていた。


本当のことは……絶対に言えない。


 俺は美咲ちゃんの眩しい笑顔を見つめながら、自分の唇をそっと噛み締めた。


 「あ、でもね、湊くん。私、メイド服よりは、チャイナドレスの方が好きかも!」


 美咲ちゃんは俺の腕に絡みつき、深夜の公園に場違いな明るい声を響かせる。


「あ、あはは……そうなんだ……」


 俺は乾いた笑いを浮かべながら、彼女の提案に合わせるフリをする。

 深夜の公園。噛み合わない二人の会話があった。

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