当然の帰結
俺は絶望的な状況の中で必死に言葉を絞り出した。
「結愛……義理とはいえ俺たちは家族だろ?」
震える声で彼女の暗い瞳を見つめ返す。
「辞めよう。な?こんなのは……」
それは俺がすがる最後の倫理観だった。
姉弟という関係性を突きつければ彼女も我に返ってくれるのではないかという淡い期待。
しかしその言葉は彼女の狂気を止めるどころかさらなる起爆剤となってしまったらしい。
「義理だから駄目なの?」
結愛の声が不気味なほど冷たく響いた。
俺の上に馬乗りになったまま彼女はゆっくりと首を傾げる。
カチ。
シーツの上で再びカッターの刃が鳴った。
「じゃあさ……もしあのお父さんが私の本当のお父さんだったら?」
「え?」
俺の思考が一瞬完全に停止した。
彼女が何を言っているのか理解できない。
本当のお父さん?
俺の親父が?
「お父さんはね、私のお母さんを孕ませて他の女の人と付き合ってたの」
結愛の口から信じられない事実が淡々と語られていく。
洗面所で義母さんが言っていた高校時代の妊娠。
突然姿を消したという当時の大学生。
「そして付き合ってた人と破局して私のお母さんに戻ってきたの」
俺の頭の中でバラバラだったパズルのピースが最悪の形で組み合わさっていく。
義母さんが高校生の時に付き合っていた大学生は俺の親父だったのだ。
親父は義母さんを妊娠させた後で俺の母親と付き合い、俺が生まれた。
そして俺の母親と別れた後に再び義母が元へ戻ってきた。
「つまりね湊くん」
結愛の長い髪が俺の頬を滑り落ちる。
そのチアフルな笑顔は完全に狂気と歓喜で歪んでいた。
「私たち血の繋がった本当の姉弟なんだよ?」
俺は息をするのすら忘れて完全に硬直した。
義理の姉弟なんかじゃない。
俺たちは父親を同じくする異母姉弟だったのか?
義理だからという俺の最後の防波堤は彼女の口から語られた残酷すぎる真実によって木端微塵に打ち砕かれた。
完全にフリーズしそうになる。
だが俺は必死に理性を総動員して、結愛の言葉を真っ向から否定した。
「その真偽はどうあれ血が繋がっているからこそ絶対に一線を越えてはいけないだろ!」
俺は声を張り上げて、ベッドの上に馬乗りになる狂気の姉を説得しようと試みた。
「家族なら……本当の姉弟ならなおさらこんなこと間違ってる!」
それは社会的な倫理であり人間としての絶対に越えてはならない最後の一線だ。
血が繋がっているからこそ俺たちはこれ以上踏み込んではいけない。
俺の必死の訴えが少しでも彼女の心に届いてくれることを祈った。
だが結愛の反応は俺の期待を残酷なまでに裏切るものだった。
彼女のチアフルな笑顔がスッと消え去り冷たく虚無的な表情へと変わる。
「……そっか」
結愛は暗い瞳のままぽつりと呟いた。
「大人しく騙されていれば穏便に済んだのにな」
その言葉と共に俺の両手首を押さえつける結愛の力がギリッと強くなった。
「いっ……!」
俺の顔が苦痛に歪む。
彼女の細い指が俺の骨を軋ませるほどの圧倒的な力でシーツに押し付けてくる。
カッターを持つ右手はいつでも動かせるように俺の首元近くに添えられていた。
「血が繋がっていても繋がっていなくても、私の湊くんへの想いは変わらないよ」
結愛の暗く濁った瞳が至近距離で俺を見下ろしている。
「むしろ本当の姉弟だからこそ誰よりも深く結ばれるべきだよね」
狂気。
その一言に尽きる。
俺が突きつけた倫理観など彼女の重すぎる愛情の前では何の防波堤にもならなかった。
むしろ「血の繋がり」という事実を彼女は自分を正当化するための最強の理由として都合よく振りかざしているのだ。
俺の両腕は完全に痺れ始め身動き一つ取れない。
耳元で鳴るカッターの冷たい金属音と義姉の狂気に満ちた甘い吐息。
「いっ……!」
俺の両手首を押さえつける結愛の指にギリッと強い力が込められた。
骨が軋むような痛みに思わず顔を歪めると彼女の力はふっと緩められる。
「はぁっ……」
俺が安堵の息を吐き出そうとした瞬間再び強い圧力が俺の腕をシーツに縫い止めた。
「ぐっ……結愛……やめ……」
力を込めては緩める。
その残酷な拷問のようなサイクルがベッドの上で何度も繰り返される。
結愛の暗く濁った瞳は俺が痛みに顔を歪めるたびにどこか嬉しそうに細められていた。
チアフルな天使は今や俺の苦悶の表情を心底楽しむ捕食者へと完全に変貌している。
「痛い?ごめんね湊くん」
口では謝りながらも、その声は甘くねっとりと弾んでいた。
俺が恐怖と痛みで乱れた呼吸を繰り返すのを、彼女は至近距離で観察し続けている。
「でも私……少し鍛えてて良かった」
結愛が俺の耳元でそう甘く囁いた。
その一言に俺は背筋が完全に凍りつくような絶望を覚えた。
あの腹筋。
特製プロテイン。
ただの健康志向か俺への過剰なスキンシップの口実だと思っていたあの行動。
まさかすべてはこの密室で男である俺を力ずくで押さえ込み完全に支配するための準備だったというのか。
華奢なはずの彼女の腕から伝わってくるのは絶対に逃れられない物理的な圧力だった。
カッターの刃が再びカチッと鳴った。
俺の抵抗する気力は手首の痛みと彼女の底知れぬ計画的な狂気によって確実に削り取られていく。
血の繋がった本当の姉弟という逃げられない呪縛。
そして圧倒的な腕力と刃物による完全な支配。
「湊くんはずっと私のおもちゃでいてね」
俺はもう自力でこのベッドから逃げ出すことは不可能な領域まで追い詰められていた。
このまま結愛の狂気に呑み込まれてしまえば俺は本当に終わる。
ただ恐怖に怯えて支配されるだけの都合の良いおもちゃに成り下がってしまう。
それは美咲ちゃんへの裏切り以上に自分自身の尊厳の完全な喪失を意味していた。
手首に走る激痛とすぐ側で鈍く光るカッターの恐怖。
だが俺は奥歯を強く噛み締め自分の内側にあるありったけの力を総動員した。
俺の突然の渾身の反抗に結愛の体勢がわずかに崩れた。
その一瞬の隙を見逃さず、俺は拘束されていた両腕を強引に引き抜いた。
そのまま結愛の細い肩を掴み彼女の体をベッドへと力任せに押し返す。
「きゃっ……」
視界が反転し今度は俺が結愛の上に覆い被さる形になった。
俺の力に押された結愛の背中がベッドに沈み込む。
カッターを持っていた彼女の手は衝撃でシーツの上に投げ出されていた。
俺は肩で激しく息をしながら乱れた髪の隙間から結愛の顔を見下ろした。
もう言葉で彼女の狂気を説得することはできないと俺は悟っていた。
倫理も家族という枠組みも彼女には一切通用しないのだ。
この暴走した情念を鎮めるための唯一の手段。
俺は震える自分の心に強引に蓋をして、結愛の顔へとゆっくり近づいていった。
そして自らの意志で彼女の柔らかい唇に自分の唇を強く重ね合わせた。
俺の腕は自然と結愛の背中へと回り彼女の華奢な体をしっかりと包み込む。
逃げるためではなく、彼女の狂気ごとすべてを受け止めるような深い抱擁だった。
押し倒しての唐突なキスと強い抱擁。
だが俺の腕の中にいる結愛の体は驚いて強張る様子すら一切見せなかった。
むしろ俺がそう動くことを最初から完全に予期していたかのように自然に俺の背中に腕を回し返してきたのだ。
ゆっくりと唇が離れる。
結愛の暗く濁っていた瞳は今は甘く蕩けるような熱を帯びて俺を見つめていた。
「……やればできるじゃん、湊くん」
笑顔とは違う妖艶で底知れない笑みが彼女の口元に浮かぶ。
「私からじゃなくて、湊くんから来てくれるのをずっと待ってたんだよ」
俺の決死の行動すらも彼女にとってはすべて掌の上の出来事でしかなかったのだ。
「これで本当に……湊くんは私のものだね」
狂気に追い詰められた末の俺の選択は、義姉の完全なる勝利宣言によって最悪の形で肯定されてしまった。




