天使の微笑み
理性が甘い狂気に溶かされそうになっていたその時だった。
コンコンコン。
密室の静寂を切り裂くようにドアを叩く音が響き渡った。
「湊くん。中にいるの?」
ドアの向こうから聞こえてきたのは雪乃宮さんの涼しげな声だった。
俺の意識が一気に現実へと引き戻される。
助かった。
この義姉の密室から俺を救い出してくれる一筋の光だ。
俺は縛り付けられた両手首に力を込め、ベッドの上で声を張り上げようとした。
「雪乃宮さ……っ!」
しかし俺のSOSは空気を震わせることなく唐突に途絶えた。
俺の口元が結愛の柔らかい手のひらによって完全に塞がれたのだ。
「んんっ!?」
もがく俺を見下ろしながら結愛は首を傾げて艶やかに微笑む。
ドアの向こうでは雪乃宮さんが「返事がないわね。でも中にいるのはわかっているわよ」と少し怪訝そうに呟いているのが聞こえた。
俺が必死に首を振って結愛の手を振り払おうとしたその瞬間だった。
カチカチカチ。
耳元で無機質な金属音が鳴った。
俺の視界の端に銀色に鈍く光る刃先が映り込む。
結愛の空いている方の手にはいつの間にか俺の机の上にあったはずのカッターナイフが握られていたのだ。
「……っ!?」
俺は全身の血液が完全に凍りつくのを感じた。
刃先を出し入れする音が俺の心臓の鼓動と重なって不気味に響く。
結愛は俺の耳元に顔を寄せ恐ろしいほど冷たく低い声で囁いた。
「私まだ罪を犯したくないの」
それは冗談でも脅しでもない本気の響きだった。
雪乃宮さんを部屋に入れたりこれ以上大声を出したりすればこのカッターがどう使われるかわからないという明確な狂気だ。
ついに取り返しのつかない一線を越えてしまった。
俺の喉は完全に引きつり、声帯は恐怖で麻痺してしまう。
「静かにしていてね湊くん」
ドアの向こうにいる雪乃宮さんには決して届かない密室のベッドの上。
ドアの向こうで雪乃宮さんが小さく息を吐く音が聞こえた。
「……寝たのかしら」
ポツリと呟かれたその言葉は俺にとっての完全なる絶望の合図だった。
パタパタとスリッパの音が廊下を遠ざかっていく。
俺をこの狂気の密室から救い出してくれるはずだった唯一の希望が完全に消え去った瞬間だった。
俺はベッドに押さえつけられたままその足音が完全に聞こえなくなるのをただ絶望の中で聞いていることしかできない。
雪乃宮さんの気配が完全に消滅しても結愛は動かなかった。
俺の上に馬乗りになったまま俺の口を塞ぐ手をどかそうとはしない。
カチ。
耳元で再びカッターの刃が動く鈍い音が鳴る。
刃を出したのか引っ込めたのか俺の角度からは見えない。
それがさらなる恐怖となって俺の全身から冷たい汗を噴き出させていた。
結愛の暗く濁った瞳は俺の恐怖に染まった顔を観察するかのようにじっと見下ろしている。
「……行っちゃったね」
どれくらいの時間が経っただろうか。
永遠にも感じられた沈黙の後で結愛がようやくゆっくりと俺の口から手を離した。
カッターを持っていた右手はいつの間にかシーツの上に置かれている。
しかし俺の両手首はまだ彼女の細い指と体重によってがっちりとホールドされたままだ。
「湊くんが大人しくしててくれてよかった」
結愛はふわりといつもの笑顔を浮かべた。
しかしその天使のような笑顔の裏に隠された狂気を俺はもう嫌というほど知ってしまっている。
「これでまた湊くんと二人きりだね」
甘いシャンプーの香りが再び俺の鼻腔をくすぐる。
俺は声帯が完全に麻痺してしまい、掠れた呼吸を繰り返すことしかできなかった。
義理の姉との関係は、もう絶対に後戻りできない危険な領域へと踏み込んでしまったのだ。




