逃げられない鎖
義母さんの足音が完全に消えるまで俺は洗面所で立ち尽くしていた。
胸の奥底にズシリと重い鉛が沈んだような感覚だった。
結愛のあの底抜けに明るい笑顔の裏に隠されていた壮絶な過去。
俺たち家族に向けられる執着と愛情の理由。
すべてを知ってしまった俺はどうやってあいつに接すればいいのだろうか。
深い溜め息を一つ吐き出して俺は洗面所の電気を消した。
そして薄暗い廊下へと足を踏み出したその時だった。
「……湊くんのバカ」
暗がりの中から震えるような小さな声が聞こえた。
ハッとして目を凝らすとそこには壁に背中を預けてうずくまる小さな影があった。
結愛だった。
笑顔はそこにはなく彼女は両手で顔を覆って小さく肩を震わせている。
どうやら今の義母さんとの会話をすべて聞いてしまっていたらしい。
「結愛……」
俺が名前を呼ぶと彼女は弾かれたように顔を上げた。
暗い廊下でも彼女の大きな瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちているのがわかった。
「バカ……なんでお母さんにそんなこと聞くの……」
結愛はふらふらと立ち上がるとそのまま俺の胸にドンッと飛び込んできた。
普段の強引な抱擁とは違う弱々しくて必死にすがるようなハグだった。
俺の胸に顔を埋めたまま結愛は声を上げて泣きじゃくり始めた。
「私……ずっと怖かったんだよ……」
彼女の小さな両手が俺の背中を着ている服ごと強く強く握りしめる。
俺は戸惑いながらもその震える華奢な背中にそっと両手を回した。
「せっかくできた本当の家族なのに……湊くんがいなくなっちゃったら私また一人ぼっちになっちゃう……」
涙で濡れた声が俺の胸を締め付ける。
だからあんなに極端な方法で俺の気を引こうとしていたのだ。
メイド服を着せたり一緒に腹筋をしようとしたりすべては俺を自分から離さないための彼女なりの必死の防衛本能だった。
「いなくならないよ」
俺は結愛の頭を優しく撫でながらはっきりと口にした。
「俺たちはずっと家族だ。俺もお前も絶対に一人になんかさせないから」
結愛はビクッと肩を震わせると涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて俺を見つめた。
「ほんと……?ずっと私のそばにいてくれる?」
上目遣いで尋ねてくるその瞳はどこまでも無防備で俺の保護欲を激しく掻き立てた。
「ああ。約束する」
俺が頷くと結愛はふにゃりと愛らしい笑顔を浮かべた。
いつものチアフルな仮面ではない彼女の本当の心の底からの安心しきった笑顔だ。
「えへへ……湊くん大好き……」
彼女は俺の首に腕を回してさらに強く密着してきた。
甘いシャンプーの香りと柔らかな体温が暗い廊下で俺の理性を激しく揺さぶる。
暗い廊下で俺の胸にすがりつく結愛。
その華奢な腕の力が少しずつ強くなっていくのを感じた。
「湊くん……私ね」
結愛の顔は俺の胸に埋もれたままだ。
声のトーンがさっきまでの涙声とは明らかに変わっていた。
低く平坦でどこか冷たい響きを帯びている。
俺の背筋にゾクリと冷たいものが走った。
「お母さんが再婚するって言った時すごく怖かったの」
結愛の言葉が静かな廊下に重く響く。
「また捨てられちゃうんじゃないかって。新しいお父さんもその息子もどうせ私から離れていくんだって」
俺は口を開こうとしたが喉が干からびたように声が出なかった。
結愛から発せられる空気が異様に重い。
圧倒的な負の感情が渦巻いて俺を金縛りにしているようだった。
「でも湊くんは優しかった。私の全部を受け入れてくれた」
背中に回された指先が俺の服を突き破るほどの強さで食い込んでいる。
「だから決めたの。湊くんは私だけのものにしなきゃって」
笑顔の裏で彼女はそんな恐ろしい決意を固めていた。
「湊くんが他の女の子を見るたびに私の心が壊れそうになるの。湊くんがいなくなったら私は空っぽになっちゃう」
彼女の言葉は純粋すぎるがゆえに狂気を孕んでいた。
「だからね……湊くん」
ゆっくりと結愛が顔を上げた。
暗闇の中でも彼女の瞳が異常なほど暗く濁っているのがわかった。
底なし沼のような漆黒の瞳が俺を真っ直ぐに射抜いている。
「私以外の女の子なんて見ないで。ずっと、ずっと私だけを見てて」
それは願いではなく呪いのような響きだった。
俺は圧倒的な恐怖と彼女の切実すぎる想いに押しつぶされそうだった。
口を挟むことなど到底できない。
彼女の放つ圧倒的な闇と執着に息が詰まりそうになる。
だが俺には絶対に譲れないものがあった。
「……結愛」
俺は乾いた喉からどうにか声を絞り出した。
俺の胸にすがりつく結愛の肩がビクッと跳ねる。
「俺の彼女は美咲ちゃんだ」
それは俺がこの狂気から身を守るための最後の防波堤だった。
どんなに結愛の過去が重くてもどんなに彼女が俺を求めてくれていても。
俺の心の中にある一番大切な席はすでに美咲ちゃんで埋まっているのだ。
この事実だけは絶対に曲げるわけにはいかない。
俺の明確な拒絶の言葉。
結愛が泣き叫ぶかそれともさらに狂気を深めるかと俺は身構えた。
しかし結愛はゆっくりと俺の胸から顔を離した。
その瞳の奥にあった漆黒の濁りが少しだけ晴れ静かな光を宿している。
「……うん。わかってるよ」
結愛はぽつりと呟いた。
「今日の写真の件……確かに悪いことをしちゃったって思ってる」
彼女なりにあのグループLINEへの誤爆に対する罪悪感はあったらしい。
自分の独占欲で湊くんの大切な人を傷つけてしまったという事実。
結愛は自嘲するように少しだけ寂しく笑った。
これでようやく彼女も引いてくれるのだろうか。
俺が微かな希望を抱いたその瞬間だった。
結愛は俺の服を握っていた手をそっと胸元へと這わせ俺の心臓の鼓動を確かめるように手のひらを当てた。
「確かに美咲ちゃんには悪いことをしちゃったけれど……」
結愛の声が再び静かな熱を帯び始める。
「湊くんを正直にそのまま渡したくはない」
その言葉は廊下の冷たい空気を切り裂くように真っ直ぐに俺の胸に突き刺さった。
「お母さんが教えてくれた本当の家族の温かさも……私を一人にしないって言ってくれた湊くんの優しさも」
結愛が上目遣いで俺を真っ直ぐに見つめてくる。
そこには狂気ではなく一人の女の子としての強くて揺るぎない意志があった。
「全部私が見つけた私の宝物だもん。美咲ちゃんが彼女でも私は絶対に諦めないから」
それは義理の姉からの完全なる宣戦布告だった。
俺の防波堤は彼女の真っ直ぐな想いの前にあっけなく打ち砕かれてしまったのだ。
笑顔でも暗い狂気でもない。
ありのままの感情をぶつけてくる結愛を前に俺はもう何の言葉も返すことができなかった。




