新しい家族の形
洗面所から出て行こうとする義母さんの背中。
白と黒のフリルがひらりと揺れるのを見て俺は思わず声を上げていた。
「待ってくださいお義母さん」
俺の少し切羽詰まった声に最強のメイドはゆっくりと足を止めた。
「どうしたの湊くん。まだ何か悩み事?」
義母さんは優雅に振り返り小首を傾げて俺を見つめる。
俺は濡れた顔をタオルで拭いながらずっと胸の奥につかえていた疑問を口にすることにした。
「あの……結愛のことなんですけど」
俺は鏡から目を逸らし言葉を探しながら慎重に尋ねた。
「どうしてあいつは俺にあんなに……その、好意を向けてくれるんですか?」
俺たちは親の再婚で姉弟になったのだ。
それなのに結愛の俺に対する執着や独占欲は尋常ではない。
時に狂気を孕むほどのその重すぎる愛情の理由が俺にはずっとわからなかったのだ。
義母さんは少しだけ目を伏せてどこか懐かしむように優しく微笑んだ。
「あの子はね、ずっと寂しかったのよ」
静かな声が冷たい洗面所の空気に溶け込んでいく。
「私と二人で暮らしていた頃もあの子はいつも明るく笑っていたわ。でも、それはね。私が心配しないように無理をして被っていた仮面だったのよ」
俺の脳裏に結愛のあの満開のチアフルな笑顔がよぎる。
どんな時でも絶対に崩れないあの笑顔の裏にそんな孤独が隠されていたなんて俺は思いもしなかった。
「湊くん。あなたが私たちを家族として何の偏見もなく温かく受け入れてくれたあの日から、あの子の笑顔は本当のものになったのよ」
義母さんがこちらに歩み寄ってくる。
「あの子にとってあなたは自分を孤独から救い出してくれた、初めての特別な人なの」
義母さんはさらに一歩近づき、俺の頬にそっと温かい手を添えた。
「だから誰にも取られたくないのよ。やり方が不器用で極端かもしれないけれど、あの子のあの純粋な想いをどうか真っ直ぐに見てあげてね」
その手は母親としての深い愛情に満ちていた。
結愛のあの暴走気味の行動の裏にそんな切ない理由があったのか。
俺の心に美咲ちゃんへの罪悪感とはまた別の重くて温かい感情が流れ込んでくる。
「……はい。わかりました」
俺が小さく頷くと義母さんは満足そうに微笑んだ
「……あの、最後に一つだけ聞いてもいいですか」
言ってしまってから俺はすぐに強烈な後悔に襲われた。
それは俺のような他人が土足で踏み入ってはいけない残酷でデリケートな領域だったのではないかと直感したからだ。
「結愛の……前の父親ってどんな人だったんですか」
静まり返った洗面所に俺の声だけが虚しく響く。
義母さんの足がピタリと止まった。
俺は自分の軽率さを心底呪った。
親の再婚という複雑な環境の中で前の配偶者の話など絶対に触れてはいけないタブーだったはずだ。
「すみません……!今の忘れてください」
俺が慌てて言葉を取り消そうとしたその時だった。
「いいのよ湊くん。あなたにはちゃんと知っておいてほしいから」
義母さんは静かに振り返り少しだけ遠い目をした。
「結愛の本当の父親はね、私が高校生の時にお付き合いしていた人なの」
俺は息を呑んで完全に言葉を失った。
高校生。
今の俺たちと同じ身分だ。
「相手は当時大学生だったわ。妊娠がわかった時、私は途方に暮れたわ。高校生で妊娠なんて、今でさえまだ白い目で見られるのに。それでも彼は『一緒に育てよう』って言ってくれたのよ」
義母さんの声はとても穏やかで不思議なほど悲壮感はなかった。
ただ淡々と過ぎ去った過去の事実を紡いでいく。
「その言葉を信じて、私はあの子を産む決心をしたの。でも……生まれる前に彼は姿を消してしまったわ」
あまりにも残酷すぎる現実だった。
高校生で未婚の母となり男に裏切られながらも、たった一人で結愛を産み育ててきた義母さん。
結愛があの笑顔の裏でずっと深い孤独を抱えていたように、義母さんもまたたった一人で世間の冷たい風と戦い続けてきたのだ。
「それからずっと私と結愛の二人きりで生きてきたわ」
義母さんは愛おしそうに目を細めてメイド服のフリルをそっと撫でた。
「あの子は私の全てだった。でもね、私自身も片方しか親がいない環境で育ったから……結愛にはどうしても『お父さん』という存在の温かさを知ってほしかったの」
ようやく父が再婚した理由がわかった気がした。
「もちろんそれだけじゃないわよ」
義母さんはふわりと微笑んで俺の顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「私が純粋にあなたのお父さんを好きになったからよ。あの人は不器用だけど本当に優しくて、私と結愛の全部を丸ごと包み込んでくれたの」
だからこそ結愛にとって俺たち父子は絶対に失いたくない「初めての温かい家族」だったのだ。
俺が結愛の不器用なヒーローになれたのは俺自身の力なんかじゃない。
義母さんと親父が築いてくれたこの温かい居場所があったからこそ彼女は俺に心を開いてくれたのだ。
「だから湊くん。あの子の重すぎる愛もちゃんと受け止めてあげてね」
義母さんはメイド服のまま悪戯っぽくウインクをして今度こそリビングへと戻っていった。
俺は洗面所に一人取り残されあまりにも重くて深い家族の歴史にただ立ち尽くすことしかできなかった。




