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母の威厳

 俺はリビングのソファの上で完全に逃げ場を失っていた。


 右腕は結愛にガッチリとホールドされている。

 左腕は雪乃宮さんの冷たい手によって的確に関節を極められそうになっていた。


 目の前のテーブルには買い取り済みの白黒フリフリメイド服が鎮座している。


「さあ湊くん。もう逃げられないよ。今すぐこれにお着替えしようね!」


 結愛がチアフルな笑顔のまま恐ろしい宣告をする。


「ええ。ショッピングモールでのデータ収集は不完全に終わったわ。この閉鎖空間で完璧な記録を再開するべきよ」


 雪乃宮さんも完全にやる気だ。

 二人の手が俺の私服のボタンへと伸びてくる。


「や、やめろ!リビングだぞ!誰か来たらどうするんだよ!」


 俺が必死に身をよじって抵抗するが二人の謎の執念には敵わない。

 俺の尊厳が今度こそ完全に失われようとしたその瞬間だった。


 「夕ご飯よー」


 のんびりとした柔らかい声がリビングに響き渡った。

 キッチンの奥からエプロン姿の義母さんが姿を現したのだ。


 その瞬間。


 俺にのしかかっていた結愛と雪乃宮さんの動きがピタリと止まった。


 義母さんは両手に大皿を持ち、ニコニコと微笑んでいる。


 しかしその背後には逆らう者を一瞬で塵にするような圧倒的なオーラが幻影のように渦巻いていた。


 相川家のヒエラルキーの絶対的頂点。

 どんな修羅場も一言で強制リセットさせる最強の調停者だ。


「あら。三人で仲良く何をしてるの?」


 義母さんが首を傾げて俺たちを見つめる。


 「なんでもないよお母さん!湊くんとお話ししてただけだもんね!」


 結愛が慌てて俺から飛び退きテーブルの上のメイド服を背後に隠した。


「ええ。本日の外出における反省点を共有していたところです」


 雪乃宮さんもスッと姿勢を正して何事もなかったかのように振る舞う。


 俺は乱れた襟元を必死に直しながらソファの上で息を整えた。


 助かった。


 義母さんの登場という奇跡のタイミングで俺の貞操と尊厳はまたしても首の皮一枚で繋がったのだ。


「そう。なら手を洗ってらっしゃい。今日はハンバーグよ!」


 義母さんの一声で狂気に満ちていたリビングの空気は一瞬にして平和な家庭の夕食へと塗り替えられた。


 俺たちは無言のまま洗面所へと向かった。


「……後で続きをしようね湊くん」


 すれ違いざまに結愛が笑顔で耳元に囁いてくる。


 背筋が凍りついたが今はとにかくこの平和な夕食の時間を享受するしかない。


 食卓には美味しそうなハンバーグが並べられている。

 昨夜の地獄の特製プロテインとは大違いの豪華なディナーだ。


 しかし俺の心は全く晴れなかった。


 美味しいハンバーグを口に運びながらも頭の中はポケットのスマホで一杯だった。


 美咲ちゃんからの既読スルー。

 メイド服の誤爆写真。


 義母さんのオーラでその場の空気はリセットできても俺の抱える最大の爆弾は全く処理されていないのだ。


 ───


 嵐のような夕食が終わり、俺は一人でダイニングテーブルを片付けていた。


 結愛と雪乃宮さんは食器をキッチンに運んでいる。

 俺の頭の中はまだ美咲ちゃんからの既読スルーで一杯だった。


 ため息をつきながらふとリビングのソファに目を向ける。

 そこには黒の布の塊が放置されていた。


 俺を変態女装野郎に仕立て上げた諸悪の根源であるあのフリフリのメイド服。

 早く隠さなければと焦って手を伸ばそうとしたその時だった。


 「あら?」


 キッチンの奥から戻ってきた義母さんが俺より先にそれに気がついた。


 義母さんは不思議そうな顔をしてソファの上のフリルをつまみ上げた。


「あ、お義母さん!それは、その……」


 俺がしどろもどろに言い訳をしようとした瞬間。

 義母さんの瞳がキラリと怪しく光ったような気がした。


「……ふふっ」


 義母さんは俺の言葉を待たずにそのメイド服を抱えるとそのままスッと足早に廊下へと消えてしまったのだ。


 「えっ……お義母さん!?」


 俺が呼び止める間もなくリビングには静寂が戻った。


 どういうことだ。


 俺の女装趣味を疑われてゴミ箱に捨てられてしまったのだろうか。

 それとも結愛の買い物だと勘違いして彼女の部屋に持っていったのか。


 キッチンから戻ってきた結愛と雪乃宮さんが首を傾げた。


「湊くんどうしたの?お母さんどこ行ったのかな?」


「リビングのエネルギー値に変動があったようね」


 その疑問の答えは数分後に最悪かつ最高の形で提示されることになった。


 パタン。

 リビングのドアが再び静かに開いた。


「お待たせしました、ご主人様」

 そこに立っていたのは先ほどのメイド服を完璧に着こなした義母さんの姿だった。


 俺は自分の目を疑った。

 俺のサイズに合わせて買ったはずの少し大きめのメイド服が義母さんの抜群のプロポーションに恐ろしいほどジャストフィットしている。


 フリルのエプロンがウエストの細さを強調し、少し短めのスカートからはすらりとした美しい脚が伸びていた。


「……っ!?」


 俺の喉から声にならない悲鳴が漏れた。


 「お、お母さん!?なにしてるの!?それ後で湊くんとお着替えごっこしようねって思って買ったやつなのに!」


 結愛が笑顔を完全に引きつらせて叫んだ。


「非論理的すぎる事象よ……まさかあの実験装置を自ら装着するなんて」


 雪乃宮さんも眼鏡の奥の目を限界まで見開いて完全に硬直している。


 しかし当の義母さんは恥ずかしがる様子など微塵も見せず優雅にスカートの裾をつまんで一礼した。


「どう?若い頃を思い出してつい着てみたくなっちゃったのよ」


 義母の圧倒的な美貌と大人の色気。


 そこにフリフリのメイド服というギャップが加わり、俺の理性は別の意味で完全に破壊されそうになっていた。

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