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退路のない道

 ゴリと先輩の足音が完全に聞こえなくなった。


 薄暗い非常階段に一人取り残された俺は冷たいコンクリートの壁に背中を預けたままズルズルと座り込んだ。


 心臓がまだ早鐘のように打っている。


 男の先輩に唇を奪われかけたという恐怖と謎のドキドキ感がまだ残っていた。


 しかし俺にはここで休んでいる暇などないのだ。

 今の俺はフリフリの白黒メイド服を着た変態女装野郎のままである。


 この格好で街を歩いて家に帰るなど社会的な死を意味する。


 まずはあの店の試着室に置き去りにしてきた俺の私服を回収しなければならない。


 非常階段の重い鉄扉を少しだけ開けてモールの通路を覗き込む。

 休日のモールは相変わらず大勢の客で賑わっていた。


 俺はこのフリフリのメイド服のまま再びあの人波の中へ飛び込まなければならないのだ。


 俺は顔を真っ赤にしながら両手で顔を隠すようにして通路の端を早歩きで進んだ。


「ねえ見てあのメイドさん」

「男の人じゃない?」


 すれ違う人々のヒソヒソ声がナイフのように突き刺さる。


 しかし今は羞恥心に耐えるしかない。


 コスプレショップの近くまで戻ってきた俺は柱の陰からそっと店内の様子を窺った。


 そこには目を血走らせた二人のイケメン執事が立っていた。


 「湊くんはどこに行ったのかな……絶対に逃がさないんだから」


 結愛がチアフルな笑顔のまま瞳孔を開いて呟いている。


「平凡に考えて彼がこのフロアから出る確率は低いわ。まずはエスカレーターとエレベーターの動線を完全に封鎖するべきね」


 雪乃宮さんが恐ろしい包囲網の構築を提案している。

 俺は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。


 見つかれば今度こそ逃げられない。

 俺は二人が店の外の通路に気を取られている一瞬の隙を突いた。


 息を殺して死角からショップ内に潜入し自分が使っていた試着室へと滑り込む。


 カゴの中には脱ぎ捨てた俺のシャツとズボンがそのまま残されていた。


 「よしっ……!」


 俺は震える手でメイド服の背中のファスナーを下ろし猛スピードで私服へと着替えた。


 フリフリの悪夢から解放されようやくいつもの自分を取り戻す。

 脱いだメイド服はこっそりもどし、俺は再びステルス行動でモールからの脱出を図った。


 執事服の二人が別のテナントを覗き込んでいる背後を通り抜けエスカレーターを一気に駆け下りる。


 そしてついにモールの自動ドアを抜けて外の空気を吸い込んだ。

 夕闇が迫る空を見上げながら俺は長かったサバイバル脱出の成功に安堵の息を吐いた。


 しかし安心したのも束の間だった。

 ポケットから取り出したスマホの画面には相変わらず美咲ちゃんからのLINEの返信はない。


 既読スルーという無言の圧力がメイド服の羞恥心以上に俺の心を重く支配している。


 肉体的にも精神的にもボロボロになった俺は重い足取りで修羅場が待つかもしれない我が家へと向かって歩き出した。


───


 命からがら家にたどり着いた俺は玄関の鍵を閉めて深く長いため息をついた。


 時刻はすっかり夜の帳が下りている。

 リビングのソファに倒れ込み天井を仰ぎ見た。


 肉体的な疲労もさることながら精神的なダメージが計り知れない。


 美咲ちゃんからの既読スルー。

 男の先輩からの非常階段での壁ドン。

 そして何よりあの変態的なメイド服での逃走劇。


 一日で経験するにはあまりにも濃すぎるカオスの連続に俺の脳髄は完全に焼き切れる寸前だった。


「……とりあえず無事に帰ってこられただけでも良しとするか」


 誰もいないリビングで独り言を呟き強引に自分を納得させようとしたその時だった。


 ガチャリ。


 玄関のドアが開く無情な音が家中に響き渡った。


「ただいま〜?」


「……」


 廊下から近づいてくる足音には明らかな怒りと苛立ちが込められていた。


 ドスッ、ドスッと床を踏み鳴らす音がリビングのドアの前で止まる。


 俺の全身の毛穴という毛穴が恐怖で一気に開ききった。


 バンッ!


 勢いよくドアが開け放たれ、そこに立っていたのは私服に着替えた結愛と雪乃宮さんだった。


 二人の瞳からは一切の光が失われている。


 その絶対零度のオーラはモールで俺を見失ったことへの不機嫌の極みを体現していた。


 「……湊くん」


 結愛がチアフルな笑顔を顔に貼り付けたままゆっくりと近づいてくる。


「どこに逃げてたのかな?」


 地を這うような冷たい声が俺の鼓膜を震わせた。


「論理的思考を放棄した野生動物のような逃走劇だったわね。私たちがどれだけ探したと思っているの」


 雪乃宮さんも冷酷な視線で俺の退路を完全に塞いだ。


「い、いや……その……どうしても外せない用事があって……」


 俺がソファの上で後ずさりしながら見え透いた嘘を並べたその時だった。


 バサッ。


 結愛が手に持っていたショッピングバッグから黒と白の布の塊を取り出してテーブルの上に放り投げた。


 「ひぃっ!?」


 俺の喉から情けない悲鳴が漏れた。

 テーブルの上に投げ出されたのは間違いなく俺が着せられていたあのフリフリのメイド服だった。


 なぜここにあるのか。


「よかったよ、先に会計してて」


 結愛がメイド服のフリルを指先でなぞりながらフフッと笑った。


「してなかったら湊くん、そのまま商品を着て逃げた万引き犯だもん」


 俺は雷に打たれたような衝撃を受けた。


「か、会計してたのかよ!?」


「当然の危機管理リスクよ。着せたまま逃走される可能性も計算に入れて、試着室に入れる前に所有権はこちらに移しておいたの」


 雪乃宮さんが恐ろしい事実を淡々と告げる。


 つまりあのメイド服はすでに彼女たちの買い取り済みのアイテムだったのだ。


 「ってことは……わざわざ回収してきたってことか……?」


 俺が絶望的な顔で尋ねると結愛は満面の笑みで頷いた。


「うん!せっかく湊くんのために買った特別なお洋服だもん!店員さんに事情を話してしっかり回収してきたよ!」


「あれは湊くんの新しい可能性を引き出すための重要な実験装置だからね」


 二人は俺を両側から挟み込むようにしてソファに腰を下ろした。


「さあ湊くん。今度は私たちのお家でゆっくり着せ替えごっこしようね?」


 結愛が俺の腕にギュッと抱きついて逃げ場を完全に奪う。

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