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大胸筋の救世主

 逃げ場のない非常階段の踊り場。


 俺の顎を掴む先輩の指先が熱を帯びている。

 爽やかな香水の匂いが俺の理性を激しく揺さぶっていた。


「罰ゲームでもなんでもいいよ。俺は可愛い子が好きだから」


 甘く低い声が未だに鼓膜を震わせる。


 顔が近づいてくる。

 もう数センチで唇が触れ合ってしまうという圧倒的なゼロ距離。


 俺の「男好き」疑惑が確信へと変わってしまうかもしれない絶体絶命の瞬間だった。


 俺はギュッと目を閉じてその時を待つしかなかった。

 しかし運命は俺の貞操をまだ見捨ててはいなかったらしい。


 バンッ!


 非常階段の重厚な鉄扉が爆音を立てて蹴り開けられたのだ。


 「おおおおっ!先輩!こんなところで大胸筋のトレーニングですか!」


 薄暗い密室に地響きのような野太い咆哮が轟いた。

 俺と先輩がハッとして入り口に目を向ける。


 そこに立っていたのは今朝の公園で俺を恐怖のどん底に陥れたあの筋肉ダルマだった。


 ゴリだ。


 彼は俺が壁ドンされて顎をクイッと持ち上げられているこの甘い空間を微塵も察知していなかった。


 ゴリの目には俺を壁に押し付ける先輩の姿が何らかの高度な自重トレーニングにしか見えていないらしい。


「さすが先輩!壁を使ったアイソメトリックスですね!俺も混ぜてください!」


 空気を読むという機能が完全に欠落した筋肉の化身が満面の笑みでズカズカと踏み込んできた。


 「……チッ」


 俺のすぐ目の前で信じられないほど鋭く冷たい音が鳴った。


 先輩の舌打ちだった。

 さっきまでの甘く蕩けるような瞳は一瞬にして絶対零度の氷のように冷え切っている。

 明らかに邪魔者が入ったことへの強烈な苛立ちだ。


 しかし筋肉の喜びで脳内が満たされているゴリがそんな些細な舌打ちに気づくはずもない。


「先輩のそのフォーム!素晴らしいです!大胸筋下部に効いてますね!」


 ゴリが興奮気味に先輩の肩に触れようとした瞬間。

 先輩はパッと俺の顎から手を離し壁についていた腕を下ろした。

 そして一瞬でいつもの爽やかなイケメンの仮面を被り直したのだ。


 「ゴリ。お前は本当に……タイミングの良い奴だな」


 先輩の言葉には明らかな皮肉が込められていたがゴリは「ありがとうございます!」と胸を張って答えている。


 俺は壁に背中を預けたまま膝から崩れ落ちそうになっていた。


 助かった。


 男の先輩に唇を奪われるという未曾有の危機は筋肉の力によって有耶無耶にされたのだ。


「じゃあね」


 先輩は俺の方を振り返ると少しだけ目を細めて艶やかに微笑んだ。


「また今度だよ?湊」


 俺の名前を甘く呼ぶと先輩はゴリを連れて非常階段から去っていった。

 パタンと鉄扉が閉まる音が響く。


 残されたのはフリフリのメイド服を着たまま息を荒らげる俺一人だけ。


 圧倒的な貞操の危機は去ったものの「また今度」という恐ろしい予約を入れられてしまった俺の夏休みはさらに混迷を極めていく。

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