記憶の上書きプロトコル
俺の目の前で結愛と雪乃宮さんが和やかに食後の紅茶を飲んでいる。
信じられない光景だがこれは現実だ。
「ねえ湊くん!今日は三人でショッピングモールに行こうね!」
結愛がチアフルな笑顔でとんでもない提案を口にした。
「は?三人で?」
俺が素っ頓狂な声を上げると雪乃宮さんも静かに頷いた。
「ええ。私の滞在が長期化する以上、生活必需品の調達は不可避よ。それに湊くんの行動範囲を私の監視下に置くためにも同行は必須ね」
「ちょっと待て長期化ってなんだよ!」
俺のツッコミは完全にスルーされた。
「決まりだね!湊くんのお洋服も一緒に見てあげようね!」
結愛が嬉しそうに立ち上がり外出の準備を始めてしまう。
俺に拒否権など最初から用意されていなかったのだ。
───
数時間後。
俺たちは隣町の巨大なショッピングモールに到着していた。
休日のモールはカップルや家族連れで溢れかえっている。
俺の右側にはフリルのついた可愛い服を着た結愛が歩いている。
そして左側には洗練されたモノトーンの私服を着こなす雪乃宮さんが並んでいた。
客観的に見ればとんでもない美少女二人を連れ歩く勝ち組の男だ。
すれ違う男たちの視線が文字通り物理的な殺意を持って俺に突き刺さってくる。
「湊くん!あっちのお店見てみようね!」
結愛が俺の右腕にギュッと抱きついてきた。
「結愛さん。不必要に密着するのは彼の歩行バランスを崩す非合理的な行為よ」
雪乃宮さんがそう言いながら俺の左腕をガシッと掴む。
「ちょっ……二人とも引っ張るな!」
左右から強烈な力で腕を引かれ俺の身体は完全に宙に浮きそうになっていた。
甘い香水とシャンプーの匂いが両側から容赦なく俺の理性を揺さぶってくる。
しかしそれ以上に周囲からの視線が痛すぎた。
「おい見ろよあいつ……両手に花じゃねえか」
「ふざけんなよ俺なんか彼女いない歴イコール年齢なのに……」
「うんち」
すれ違う男たちの呪詛の声がはっきりと鼓膜に届く。
両手に花。
確かに言葉だけを聞けば天国のようなシチュエーションかもしれない。
だが実際のところは右に魔王で左に氷の女王という絶望的な布陣である。
俺は一歩歩くごとに精神力とヒットポイントをごっそりと削り取られていた。
「湊くんの歩幅は私と結愛さんの平均値に合わせなさい。それが最も効率的な集団行動よ」
「雪乃宮さんは理屈っぽいなぁ。湊くんはただ私と歩くのが一番楽しいんだよね?」
俺の頭上でバチバチと青白い火花が散っている。
美咲ちゃんとの水族館デートはあんなに心安らかで幸せだったというのに。
どうして俺の休日はこうも極端から極端へと振れてしまうのだろうか。
「あ、あそこのカフェで少し休まないか……?」
俺が限界を迎えて提案すると二人は見事なユニゾンで俺の腕を引っ張った。
「ダメ!まだ買い物終わってないよ!」
「だめよ。私の生活必需品の調達が完了するまで休憩は許可しないわ」
冷暖房の効いた快適なショッピングモールの中で俺だけが滝のような冷や汗を流している。
───
ショッピングモールの広大な通路を右へ左へと引きずり回されること一時間。
俺の体力はすでに限界を示す赤ランプを激しく点滅させていた。
右腕には結愛の柔らかな感触。
左腕には雪乃宮さんの容赦ないホールド。
行き交う人々からの嫉妬と殺意の視線を全身に浴び続け俺の精神力は完全にすり減っていた。
「なあ……そろそろ休まないか?」
俺は引きつった笑いを浮かべながら二人に懇願した。
「ウィンドウショッピングでも結構体力使うだろ……」
ピタリ。
俺の右腕に抱きついていた結愛が歩みを止めた。
彼女は驚いたように目を丸くして俺の顔を下から覗き込んでくる。
「えっ?湊くんウィンドウショッピングなんて言葉知ってるんだ?」
結愛の顔にパッと明るいチアフルな笑顔が咲き誇る。
「もしかして私のためにそういう言葉を勉強してくれたの?」
彼女の瞳がキラキラと輝き期待に満ちた視線を向けてくる。
俺が自分の趣味に合わせてファッション用語や買い物用語を覚えてくれたのだと勘違いしているらしい。
俺はここで一つの賭けに出ることにした。
このまま二人に振り回され続けるわけにはいかない。
俺にはちゃんと付き合っている恋人がいるのだと現実を突きつけてこの地獄の同行から解放されるための強硬手段だ。
俺は意を決して大きく息を吸い込んだ。
「いや、俺が勉強したわけじゃないよ」
俺は結愛と雪乃宮さんの顔を交互に見ながらわざと声を張って宣言した。
「『彼女』の美咲ちゃんに初めて教えてもらったんだ」
俺は『彼女』という部分をこれでもかというほど強調した。
俺には愛する彼女がいる。
だからお前たちの入り込む隙などないのだ。
その絶対的な防壁となる言葉を突きつければさすがの二人も少しは怯むだろう。
俺は二人がショックを受けて腕を離してくれる瞬間を待ち構えていた。
しかし現実は俺の浅はかな予想を遥かに斜め下へとぶち抜いていった。
「……」
「……」
結愛と雪乃宮さんの動きが完全に止まった。
しかし俺の腕を掴む力は弱まるどころかギリギリと音を立てるほどに強くなっている。
「……初めて?」
結愛がぽつりと呟いた。
彼女の瞳から光が一瞬にして消え失せ深淵のような漆黒が広がり始める。
「……湊くんの、初めて……?」
「……初めて、と言った?」
雪乃宮さんもまた信じられないものを見るような冷ややかな声を漏らした。
「彼女」という絶対的な防波堤となるはずだった単語。
二人はその部分を完全にスルーしなぜかその後ろにくっついていた「初めて」という言葉にだけ過剰な反応を示した。
「湊くんの初めての知識……私が教えるはずだったのに」
結愛の声が地を這うように低くなる。
「美咲ちゃんが湊くんの『初めて』を奪ったの……?そんなの絶対に許さない。湊くんの初めては全部私がもらうんだもん」
「エラーが発生しました」
雪乃宮さんが虚ろな目で宙を見つめながらブツブツと呟き始める。
「湊くんの学習管理者である私を差し置いて未知の単語をインストールするなど言語道断。彼の『初めて』の概念獲得は全て私の観測下で行われなければならないのに……他者がその領域を侵食するなど完全に私の計算外よ」
俺は背筋が完全に凍りつくのを感じた。
ヤバい。
地雷の種類が違った。
彼女がいるという事実よりも「他の女に初めて何かをされた」という事実の方がこの二人にとってははるかに許しがたい大罪だったらしい。
「ち、違う!ただ言葉の意味を教えてもらっただけで……!」
俺が必死に弁明しようとするが完全に狂気のスイッチが入った二人には全く届いていなかった。
「ねえ湊くん。そんな言葉の記憶今すぐ消しちゃおうね」
結愛が俺の右腕をさらに強く引き寄せた。
「私が湊くんにもーっと素敵な『初めて』をいっぱい教えてあげるから。ね?全部私で上書きしようね」
「いえ、結愛さんの感情的なアプローチでは不完全よ」
雪乃宮さんも俺の左腕をガシッと掴み直す。
「湊くん。今すぐここで私の主導による完璧な『初めて』の体験プログラムを実行するわ。あなたの脳内の誤ったデータを早急にデリートする必要があるわ」
「お、おい!ここはショッピングモールのど真ん中だぞ!引っ張るな!」
彼女という最強の盾は全く機能せず俺は「初めて」という言葉に過剰反応した二人のヒロインによってさらなる狂気の渦へと引きずり込まれていくのだった。
休日のモールに俺の悲鳴が虚しく響き渡る。




