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夕暮れ時の接吻

 お揃いのペンギンストラップをそれぞれ付け終わると、水族館の出口を抜け、少し傾きかけた西日が俺たちを照らした。


 夢のように甘かった青の世界から現実へと引き戻される感覚があった。


「そろそろ帰るか」


 俺が努めて明るく声をかけると繋いだままの右手にギュッと強い力が加わった。


「……まだ、帰りたくない」


 美咲ちゃんは俯いたまま小さく首を横に振った。

 その手は俺の指を絶対に逃がさないと言わんばかりにきつく握りしめられている。


 彼女のその一言は俺の胸の奥を激しく甘く締め付けた。


 帰らなければいけない理由は特にない。

 俺の家には現在進行形で爆弾を抱えた義姉がいるのだから。


 できることなら俺だってこのまま美咲ちゃんとずっと一緒にいたかった。


「じゃあ、もう少しだけ一緒にいようか」


 俺がそう言うと美咲ちゃんはパッと顔を上げて嬉しそうに微笑んだ。


 水族館に併設された商業施設の通路には等間隔にベンチが並んでいる。


 俺たちはちょうど空いていたガラス張りの壁沿いのベンチに腰を下ろした。


 目の前を休日の買い物を楽しむ家族連れやカップルが行き交っている。


 賑やかな人波の中でここだけが俺たち二人だけの特等席のように感じられた。


 ベンチに座っても美咲ちゃんは俺の手を離そうとはしなかった。


「美咲ちゃん?」


 彼女はそっと自分の頭を俺の右肩に乗せてきた。


「……こうしてると安心するの」


 彼女のサラサラとした髪が俺の首筋をくすぐり甘い香りがふわりと漂う。


 周囲にはたくさんの人がいるというのに不思議と恥ずかしさはなかった。

 むしろ誰にも邪魔されない二人の世界がそこに完成しているような気がしたのだ。


 俺たちのスマホにつけられた青とピンクのペンギンが寄り添うように小さく揺れている。


 あのカオスな修羅場がまるで遠い昔の出来事のように思えた。

 氷の女王の理不尽な要求も義理の姉の激しい独占欲も今の俺には届かない。


 ここにあるのはただ純粋に俺を求めてくれる彼女の柔らかな温もりだけだった。


 「湊くんと一緒にいると時間が経つのがあっという間だね」


 美咲ちゃんが俺の肩に寄りかかったままポツリと呟いた。


「俺もそう思うよ。ずっとこのままでいたいって本気で思ってる」


「ふふっ、嬉しいな。……ねえ湊くん」


 美咲ちゃんが少しだけ顔を上げて俺の耳元へと唇を近づけてきた。


「私ね、湊くんの特別になれて本当に良かった」


 周囲の喧騒にかき消されてしまいそうなほど小さな囁きだった。

 しかし俺の耳にはこの世界で一番美しく響き渡る最高の愛の言葉だったのだ。


 行き交う大勢の人が俺たちをただの通りすがりの景色として通り過ぎていく。


 俺の肩には今も尚、美咲ちゃんの心地よい重みと温もりが預けられていた。


 繋いだ手は一度も離れることなく互いの体温を確かめ合っている。


「……やっぱ、湊くんの隣ってすごく落ち着く」


 彼女の甘い囁きが周囲の雑踏を遠ざけていくようだった。

 俺もこのまま時間が止まってしまえばいいと本気で願っていた。


 しかしどれだけ人が多くてもふとした瞬間に人波が途切れることがある。

 目の前を歩いていた大きな家族連れが通り過ぎて視界がふっと開けた。


 周囲に誰もいなくなったほんの数秒間の空白。

 その奇跡のような瞬間に彼女は動いた。


 肩に寄りかかっていた美咲ちゃんがスッと顔を上げた。


「湊くん」


 呼ばれて横を向いた俺の視界に彼女の顔が限界まで近づいていた。


 ちゅっ。


 小さくてでもはっきりと鼓膜を揺らす可愛らしい音が鳴った。

 俺の右頬に美咲ちゃんの柔らかな唇が触れたのだ。


 ほんの一瞬の出来事だった。

 すぐにまた人波が戻ってきて周囲はいつもの喧騒に包まれる。


 しかし俺の右頬には確かに彼女の唇の熱と甘い感触がくっきりと残されていた。


 「……っ!?」


 俺は声にならない声を上げて完全に硬直した。


 心臓が肋骨を突き破りそうなほどの勢いで激しく跳ね回っている。

 顔から火が出るどころか全身の血液が沸騰してしまいそうだった。


 驚いて美咲ちゃんの方を見ると彼女はベンチに座ったまま少しだけ背伸びをするような姿勢から元の位置に戻るところだった。

 そして顔を真っ赤にして照れくさそうに笑った。


「……えへへ。人波が途切れたからつい」


 はにかむようなその笑顔は破壊力という言葉すら生ぬるい。

 俺の理性の糸がプツンと音を立てて千切れそうになるのを感じた。


 ここは人が行き交う公共の場だ。

 俺は必死に深呼吸をしてどうにか爆発しそうな感情を抑え込んだ。


「美咲ちゃん……君って子は……」


「ご、ごめんね。嫌だった……?」


 上目遣いで不安そうに聞いてくる彼女が愛おしくてたまらない。


「嫌なわけないだろ。ただ……心臓が持たないだけだ」


 俺が正直に白状すると美咲ちゃんは嬉しそうに俺の腕にギュッと抱きついてきた。


「よかった。私ね、湊くんとずっと一緒にいたくて……もっとドキドキさせちゃおうって思ったの」


 彼女の小悪魔的な可愛さに俺はもう完全に降伏するしかなかった。

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