最後のページ
俺の致命的な失言から数時間が経過した。
完全にドン引きした雪乃宮さんは「非論理的な性的嗜好の変容は私の手に負えないわ」と言い残し逃げ帰るように我が家を後にした。
海へ逃亡した健太からは「無事生還した」という短いメッセージだ
けが送られてきた。
結愛は俺を見る目が少しだけ警戒を帯びており、今は自室にこもっている。
おかげで俺は久しぶりに誰にも邪魔されない静かな昼下がりを迎えていた。
自室のベッドに寝転がりながら俺は一冊の文庫本を手に取った。
美咲ちゃんから借りたばかりの小説だ。
表紙には可愛らしいイラストが描かれている。
タイトルはいかにも読みやすそうなライトなミステリ小説だった。
少し前に彼女の熱烈なおすすめだという海外の本格ハードSF小説を借りたことがあったが、俺の絶望的な読解力では相対性理論やら量子力学やらが複雑に絡み合うそのストーリーを全く理解できなかった、いや、そもそもカタカナの名前を覚えることすら難しかった。
数日後。
俺は正直に「ごめん難しくて途中で挫折した」と頭を下げて本を返却した。
その時の美咲ちゃんの顔が今でも俺の胸にチクリと刺さっている。
「……そっか。湊くんには少し、難しかったかな」
彼女は無理に笑おうとしていたがその瞳は明らかに悲しげに伏せられていた。
自分が感銘を受けた大好きな本を好きな人と共有できなかった寂しさが痛いほど伝わってきたのだ。
あの悲しそうな顔をもう二度と見たくはない。
だから今回は俺から美咲ちゃんにお願いしたのだ。
「俺でも楽しく読めそうなミステリを教えてくれないか」と。
美咲ちゃんはパッと顔を輝かせて「それならこれが絶対おすすめ!」とこの本を貸してくれた。
俺は気合を入れてページをめくった。
物語は高校の旧校舎を舞台にした日常の小さな謎を解き明かすという内容だった。
主人公の無気力な男子生徒とおせっかいな幼馴染の女子が学校で起こる不可思議な事件を解決していく。
文章は軽快でテンポが良く登場人物たちの掛け合いもコミカルで面白い。
SFの時のように専門用語で頭が痛くなることもなく俺はすんなりと物語の世界に引き込まれていった。
「へえ……最初のあの何気ない会話が伏線になってたのか」
気がつけば一時間が経過していた。
俺はベッドの上で寝返りを打ちながら夢中で活字を追っていた。
主人公と幼馴染の距離感が事件を通じて少しずつ縮まっていく甘酸っぱい展開も色々と複雑な状況にある俺にとっては妙にリアルに感じられる。
これなら美咲ちゃんに本を返す時胸を張って感想を語り合うことができるだろう。
「あのトリックは全然読めなかったよ」とか。
「幼馴染の女の子の不器用なところが可愛いよな」とか。
俺の言葉を聞いて美咲ちゃんがパッと花が咲いたように微笑み楽しそうに本の話で盛り上がる。
その姿を想像するだけで俺の口角は自然と緩んでいた。
朝のあのカオスな修羅場と筋肉の恐怖が嘘のように静かで穏やかな時間が流れていく。
最後のページをめくり終えた俺は深く息を吐き出した。
見事な伏線回収と心地よい余韻が胸の奥に広がっていく。
主人公と幼馴染の少し不器用な関係性が事件を通して変化していく様子が本当に面白かった。
SF小説の時のように専門用語で頭を抱えることもなく一気に読み切ってしまった。
ベッドの上に寝転がったまま天井を見上げる。
「これなら美咲ちゃんにちゃんと感想を言えるな」
俺が一人で満足げに呟いた、その時だった。
枕元に放り投げていたスマホが軽快な着信音を鳴らし始めた。
画面を見るとそこには『美咲ちゃん』の文字が光っている。
まるで俺が本を読み終えるタイミングを計っていたかのような完璧なタイミングだった。
俺は少しだけ姿勢を正して通話ボタンを押した。
「もしもし美咲ちゃん?」
「あ、湊くん!もしかして今本読んでた?」
電話の向こうから聞こえる彼女の声はどこか弾んでいて嬉しそうだった。
「ちょうど今読み終わったところだよ。すごいタイミングだな」
「えっ本当!?じゃあ……どうだった?」
少しだけ緊張したような声色に変わる。
以前SF小説を途中で諦めて返した時の彼女の悲しそうな顔が脳裏をよぎった。
俺はあの時のリベンジを果たすべく熱を込めて話し始めた。
「めちゃくちゃ面白かったよ。最初のあの何気ない会話がまさかあんな伏線になってるなんて思わなかったし」
「でしょでしょ!あそこすごくびっくりするよね!」
「それに幼馴染の女の子が主人公をからかいつつも、本当はすごく大事に思ってるのが伝わってきて可愛かったな」
俺が感想を並べるたびに美咲ちゃんの声がパッと明るくなっていくのが電話越しでもはっきりとわかった。
「よかったぁ……湊くんが面白いって言ってくれて私すごく嬉しい」
美咲ちゃんの声がふんわりと甘く溶ける。
「美咲ちゃんが俺のためにこの本を選んでくれたからだよ。ありがとう」
「ううん、私こそ湊くんにこの本の面白さを共有できて幸せだよ」
スマホ越しに伝わってくる甘い空気に俺の鼓動が少しずつ早くなっていく。
朝のゴリの乱入で「男好き」などと勘違いされてドン引きされた記憶などすでに消え去っていた。
「なぁ美咲ちゃん。この本、明日返したいんだけど」
俺はベッドから起き上がり窓の外の青空を見つめながら口を開いた。
「うん。もちろんいいよ」
「ただ返すだけじゃもったいないからさ。本を返した後どこか遊びに行かないか?」
俺の提案に電話の向こうで美咲ちゃんが小さく息を呑む音が聞こえた。
「それって……デートのお誘い?」
「うん。美咲ちゃんさえ良ければだけど」
「行く!絶対行く!」
即答だった。
彼女の嬉しそうな声が俺の耳をくすぐる。
「じゃあ明日の十時に駅前で待ち合わせでいいかな」
「うん!私とびっきり可愛い服着ていくから楽しみにしててね湊くん!」
「ああ。俺も楽しみにしてる」
通話が切れた後も俺の耳には彼女の甘い声の余韻が残っていた。
本の感想から始まった自然な流れで明日のデートの約束を取り付けることに成功したのだ。
俺はスマホを胸に抱き寄せたままニヤニヤとだらしない顔を浮かべてベッドの上をゴロゴロと転げ回った。




