天使の逃亡
暗い部屋の中で結愛の甘い吐息が顔にかかる。
彼女は俺が下で寝ている二人に気を使って身動きが取れないことを完全に理解していた。
「どうしたの湊くん。ドキドキして動けないの?」
結愛が俺の首元に腕を絡ませて余裕ぶった表情でクスクスと笑う。
その瞳には完全に俺をからかって遊んでいる小悪魔の光が宿っていた。
「下で雪乃宮さんたちが起きたらどうしようって考えてるんでしょ?」
図星を突かれて俺は奥歯を噛み締めた。
このままではただ結愛のペースに振り回されて終わってしまう。
義理の姉のからかいにいつまでもやられっぱなしの弟でいるつもりはなかった。
俺は結愛の上に覆い被さる体勢を少しだけ低くした。
「……お前こそ余裕ぶってるけど、本当はどうなんだよ」
俺は結愛の耳元に顔を近づけて限界まで声を潜めて囁き返した。
そして空いていた右手をゆっくりと結愛の顔の横へと滑り込ませた。
指先が彼女の柔らかい髪をかき分ける。
そのまま俺は結愛の小さな耳たぶにそっと触れた。
「あっ……」
結愛の口から先ほどの余裕とは全く違う小さな吐息が漏れた。
ピクリと彼女の肩が跳ねる。
俺の指先から伝わる結愛の耳たぶは驚くほど熱を持っていた。
暗闇の中でも結愛の頬がみるみるうちに赤く染まっていくのがはっきりとわかる。
「み、湊くん……なに……」
さっきまでの小悪魔的な笑顔は完全に崩れ去り、彼女の瞳が動揺に激しく揺れていた。
俺はそのまま結愛の耳たぶからゆっくりと指を滑らせた。
熱を帯びた頬をなぞり、やがて彼女の桜色の唇へと指先を這わせる。
柔らかくて少しだけ震えている唇。
親指でその唇の輪郭をそっと撫でると結愛はコクンと小さく喉を鳴らした。
「……湊、くん……」
結愛が俺を見上げる瞳はすっかり潤んでいた。
部屋の中には下で眠る健太の規則正しい寝息だけが響いている。
バレてはいけないという極限のスリルが二人の間の空気をさらに濃密なものへと変えていく。
からかうつもりだった結愛が完全に俺の反撃に呑み込まれていた。
俺たちの顔の距離はあと数センチしかない。
結愛の甘いシャンプーの香りと少しだけ上がった体温が俺の理性を激しく揺さぶる。
薄暗い部屋の中で俺たちの顔は限界まで近づいていた。
結愛の潤んだ瞳が俺を真っ直ぐに見つめている。
重なり合う吐息が互いの体温をさらに上昇させていく。
俺の親指が彼女の柔らかい唇をなぞり下で眠る二人に気づかれないよう極限の静寂が空間を支配していた。
あと少し。
あと数センチで何かが決定的に変わってしまう。
そんな予感が二人の間に満ちたその瞬間だった。
ガチャリ。
無情にも背後のドアが勢いよく開く音が響き渡った。
俺の心臓は文字通り凍りついた。
結愛もビクッと体を震わせて俺の服を強く握りしめる。
誰かが起きたのか。
いや下で寝ている健太と雪乃宮さんの寝息は変わっていない。
「……トイレ、トイレ」
のんびりとした低音の呟きが聞こえた。
俺は恐る恐る結愛の上に覆い被さったまま首だけを後ろへ向けた。
そこに立っていたのは目を半分閉じたままの父さんだった。
どうやら夜中にトイレに起きたものの寝ぼけて俺の部屋のドアを開けてしまったらしい。
俺と結愛はベッドの上で押し倒しているという最悪の体勢のまま完全に固まっていた。
見られた。
間違いなく見られた。
俺の脳内で言い訳のシミュレーションが超高速で回転し始める。
しかし父さんは俺たちの方をチラリと見た後で首を傾げた。
「……あれ?間違えた」
そしてそのままゆっくりとドアを閉め何事もなかったかのように廊下へと消えていった
。
パタンという軽い音が部屋に響く。
完全なるスルー。
父さんは寝ぼけすぎていてベッドの上の異常事態を脳で処理しきれなかったらしい。
「……っ」
沈黙が降りた部屋の中で結愛が小さく息を呑む音が聞こえた。
俺が結愛の方へ視線を戻すと彼女の顔は耳の先まで茹でダコのように真っ赤に染まっていた。
「み、湊くんのバカっ!」
結愛は蚊の鳴くような声でそう叫ぶと俺の胸をドンと押し返した。
俺がバランスを崩して横に倒れ込むと彼女は弾かれたようにベッドから飛び起きる。
そしてそのまま脱兎のごとく俺の部屋から飛び出し自分の部屋へと逃げ帰ってしまった。
残されたのは微かなシャンプーの香りと床で安らかな寝息を立てる健太と雪乃宮さんだけ。
俺はベッドの上で大の字になりながらまだ激しく打ち続ける心臓を必死に落ち着かせようとしていた。




