魔王の帰還
額に突き刺さった箸。
白目を剥いて気絶した父さん。
そして優雅に微笑む義母さん。
我が家の絶対的なヒエラルキーを見せつけられダイニングは水を打ったように静まり返っていた。
「……お父さんは放っておいて食べましょうか」
義母さんが何事もなかったかのように自分の箸を手に取る。
俺たちは無言で頷き再び食事に戻ろうとした。
その時だった。
「み、湊!俺が作ったハンバーグも食べてくれよ!」
健太が義母によってガタガタと震えている足で立ち上がり、一つの皿を俺の前にグイッと押し出してきた。
そこに乗っていたのは義母さんの作った少し歪な肉塊とは打って変わって見事な楕円形を描く完璧なハンバーグだった。
表面にはツヤツヤと輝く肉汁が浮かび上がりプロの洋食屋で出てきてもおかしくないほどの美しい造形をしている。
「これがお前の作ったやつか?」
「おう!玉ねぎの涙を乗り越えて完璧な空気抜きと成形をこなした俺の自信作だ!」
健太は先ほどの恐怖を忘れたかのように胸を張って鼻息を荒くした。
俺は半信半疑でフォークを突き立てた。
ナイフを入れると中からジュワッと黄金色の肉汁が溢れ出してくる。
「おお……」
思わず感嘆の声が漏れた。
一口大に切り分けてそのまま口へと運ぶ。
「っ!」
俺は目を見開いた。
美味い。
ただ形が良いだけではない。
玉ねぎの甘みが肉の旨味を極限まで引き出し絶妙なスパイスの香りが鼻に抜けていく。
ふっくらとした食感はまるで口の中で溶けるようだった。
「どうだ湊!美味いだろ!」
「ああ。悔しいけどめちゃくちゃ美味いぞこれ」
俺が素直に絶賛すると健太は「っしゃあ!」とガッツポーズを決めた。
「ふふん!俺のハンバーグへの愛がこの形と味を生み出したのさ!」
親友の意外な才能に驚いていると隣から不穏な気配が漂ってきた。
「……湊くん」
結愛だった。
彼女は笑顔を顔に貼り付けたまま俺の服の袖をギュッと掴んできた。
「健太くんのハンバーグ美味しいんだね」
「あ、ああ。びっくりしたよ」
「ふーん。そっかぁ」
結愛はニコニコと笑っているが、その声のトーンは明らかに嫉妬に燃えていた。
彼女は手元のフォークで自分の皿にあるハンバーグを少しだけ乱暴に突き刺した。
「でもね湊くん!私が作ったハンバーグだって負けてないんだから!」
結愛は自分が作った一番形の綺麗なハンバーグを切り分けフォークに刺して俺の口元へと運んできた。
「はい、あーんして!」
「い、いや自分で食べるから」
「ダメ!私のが一番美味しいって言ってくれるまで何度でもあーんしてあげる!」
結愛の瞳の奥には健太に対する強烈なライバル心が燃え上がっていた。
「……非合理的な対抗心ね。栄養素とカロリーはどちらも大差ないわ」
雪乃宮さんが冷静にツッコミを入れるが結愛の耳には全く届いていない。
「ほら湊くん!早く!」
俺は気絶したままの父さんを横目に健太の絶品ハンバーグと結愛の愛情たっぷりなハンバーグの板挟みになりながら限界突破の夕食を続けることになったのだった。
───
「……う、ううん」
椅子の背もたれに首を垂れていた父さんが低いうめき声を上げてゆっくりと顔を上げた。
額には見事な赤い正方形の痕がくっきりと残っている。
「お父さん、おはよう。よく眠れた?」
義母さんが何事もなかったかのようににっこりと微笑んでお茶を差し出した。
「ああ……なんだかとても恐ろしい夢を見ていた気がするんだが……」
父さんは額をさすりながら意識の混濁から抜け出し食卓を見渡した。
そして俺の左隣で静かにハンバーグを切り分けている雪乃宮さんに目を留めた。
「そういえば雪乃宮さん」
「はい、何でしょうか」
雪乃宮さんがフォークを置き上品に小首を傾げる。
父さんはビールを一口飲むとごく自然な会話のトーンでとんでもない爆弾を投下した。
「雪乃宮さんは湊とはクラスが違うんだよな?わざわざ休日に家まで教えに来てくれるなんて……ところで、雪乃宮さんはうちの湊のことどう思ってるの?」
カチャンッ。
結愛の手からフォークが滑り落ち皿に当たって高い音を立てた。
リビングの空気が一瞬にして凍りつき俺の心臓は早鐘のように激しく打ち始めた。
「お、おい父さん!急に変なこと聞くなよ!」
俺が慌てて制止しようとするが義母さんまでが「あら、私もちょっと気になっていたのよ」と身を乗り出してくる。
健太に至っては「ヒューッ!」と小さく口笛を吹いて完全に観客モードだ。
大人の無邪気な好奇心という名の刃が雪乃宮さんに向けられている。
しかし当の雪乃宮さんは全く動じることなく涼しげな表情で俺の方を一度だけチラリと見た。
「そうですね……」
彼女は顎に手を当てて少しだけ考える素振りを見せる。
「湊くんは私の構築する思考の枠組みをことごとく破壊してくる、極めてイレギュラーな存在です」
「イレギュラー?」
父さんが不思議そうにオウム返しをする。
「ええ。本来なら非効率的で関わるべきではないと脳が弾き出しているのですが……」
雪乃宮さんはそこで言葉を区切りふっと口角を上げた。
「なぜか彼のそばにいると、私の数式にはない未知の変数が次々と生まれるのです。それは非常に興味深く……ええ、研究対象として一生手元に置いて観察し続けたいと思えるほどには、特別な感情を抱いています」
一生手元に置いておきたい。
それは雪乃宮さんなりの遠回しだが強烈な独占欲の表明だった。
「おおー!それはすごい評価だな!」
父さんは呑気に感心しているが俺の背筋には氷柱を突き立てられたような悪寒が走っていた。
なぜなら俺の右隣から限界を突破した漆黒のオーラが立ち昇り始めていたからだ。
「……一生手元に置く?」
結愛が地を這うような低い声で呟いた。
彼女の瞳から完全にハイライトが消え去り朝の尋問の時を遥かに超える魔王が再降臨していた。
「雪乃宮さん。湊くんは私のかわいい弟なの。一生手元に置くのは家族である私の役目なんだけど」
「血の繋がりもない戸籍上の関係性に執着するのは非合理的ね。私はより彼の人生の最適解を提示できると自負しているわ」
「最適解?湊くんにとっての最適解は私と一緒にいることだよ」
「それはあなたの主観的な感情論に過ぎないわね」
二人の視線が空中で激突し青白い火花と漆黒の稲妻がリビング中に吹き荒れる。
さっきまでの和やかなハンバーグの余韻は完全に消え去った。
「あ、あの……俺の意見は……」
「「湊くんは黙ってて」」
見事なユニゾンで一蹴され俺は完全に口を閉ざした。
親の無自覚な一言から始まった氷の女王と魔王の頂上決戦。
健太のハンバーグの美味しさなどすでに誰も覚えていない。
俺は痛む胃をさすりながらこの長すぎる一日が早く終わることだけを神に祈り続けていた。




