キッチン参戦
「俺も手伝いますよお母さん!」
健太が謎のテンションで立ち上がりキッチンへと向かっていった。
「あら健太くん。じゃあ玉ねぎのみじん切りをお願いしようかしら」
「任せてください!ハンバーグへの愛なら誰にも負けません!」
義母さんがクスクスと笑い結愛も楽しそうにボウルを用意している。
健太の奴は数学のゲシュタルト崩壊から逃れられた高揚感で完全に調子に乗っていた。
父さんも「じゃあ俺は着替えてくるよ」と言って二階へと上がっていく。
賑やかだったリビングに不意に静寂が訪れた。
ダイニングテーブルに残されたのは必然的に俺と雪乃宮さんの二人だけになった。
キッチンからはトントンとリズミカルな包丁の音と楽しげな話し声が聞こえてくる。
「……湊くんのご家族はとても温かいのね」
雪乃宮さんが手元の参考書を閉じながら静かに口を開いた。
「ああ。父さんも義母さんも結構フランクだからな」
俺は少し照れくさくて頭を掻いた。
雪乃宮さんは氷の女王と呼ばれているがその横顔は少しだけ柔らかく見えた。
しかし俺には今日ずっと抱えていた一つの疑問があった。
インターホンのモニターに映った二人の姿を見た時からの疑問だ。
「なあ雪乃宮さん」
俺は向かいの席に座る彼女に声をかけた。
「なんで健太と二人でうちに来たんだ?」
普通に考えれば学年トップの彼女と赤点ギリギリの健太が休日に連れ立って歩く理由などない。
ましてや俺の家にわざわざ突撃してくるなんて不自然極まりなかった。
雪乃宮さんは俺の問いに少しだけ目を伏せた。
そして長いまつ毛を揺らして静かに俺を見つめ返した。
「……それは、健太くんから相談を受けていたからよ」
「相談?あいつが雪乃宮さんに?」
俺は思わず聞き返してしまった。
健太が雪乃宮さんに相談なんて勉強のことくらいしか思いつかない。
しかしそれなら学校で聞けば済む話だ。
「ええ。彼なりに深刻な悩みだったみたいね」
雪乃宮さんはわずかに首を傾げた。
「その解決策としてあなたと結愛さんのいるこの場所が最適だと私が判断したの」
「俺と結愛が……最適?」
俺はますます訳が分からなくなった。
数学のゲシュタルト崩壊を起こすほどの学力しか持たない親友が何を抱え込んでいるというのか。
「……湊くんは気づいていないのね」
雪乃宮さんが小さくため息をつく。
「彼のあの過剰なまでの明るさと自己犠牲の精神がどこから来ているのか」
「あいつが何か隠してるって言うのか?」
俺の声が少しだけ低くなる。
親友である俺には何も言わず雪乃宮さんに相談していたという事実が少しだけ胸に引っかかった。
「隠しているというよりはあなたに気を遣っているのよ」
雪乃宮さんはキッチンの方へ視線を向けた。
健太が玉ねぎの目に染みる刺激と戦いながら大げさに騒いでいる声が聞こえる。
「彼はね、あなたのこの複雑な家庭環境と四人の女子から向けられる好意の板挟みになっている現状を誰よりも心配しているのよ」
「俺の心配……?」
「ええ。だからあえて道化を演じてあなたの負担を減らそうとしている」
俺はハッとして目を見開いた。
さっきわざと白々しい誤答をして雪乃宮さんの注意を引いたのも全ては俺と結愛を二人きりにするためだったのだ。
「でも健太くん自身もそのストレスで限界が近かったの。だから私に助けを求めてきたというわけ」
雪乃宮さんは淡々と事実を告げた。
俺は自分の鈍感さを呪いたくなった。
雪乃宮さんの言葉を聞いて、俺は深く反省した。
確かに俺の周りの女子たちのことで健太が頭を悩ませていたとしても俺に直接相談するのは筋違いなのかもしれない。
俺自身がすべての元凶であり、当事者なのだから。
けれどそれでも俺の心の中には割り切れない思いが渦巻いていた。
あいつは俺のたった一人の親友だ。
いくら俺が原因の悩みであっても水臭い真似はせずに真っ直ぐ俺にぶつけてほしかった。
一人で抱え込まずにもっと俺を頼ってほしかったのだ。
男同士でそんなことを考えるなんて少し気持ち悪いかもしれない。
だが俺は健太に対してある種の独占欲のようなものを抱いていることに気がついてしまった。
それだけあいつの存在が俺の中で大きいということだろう。
キッチンからは相変わらず楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
玉ねぎと格闘しながらおどけて見せる親友の背中が急に愛おしく思えてきた。
俺は少しだけ目頭が熱くなるのを感じながら雪乃宮さんに視線を戻した。
俺の胸の内で熱い友情が燃え上がっていたその時だった。
雪乃宮さんはクスリと小さく笑った。
「まぁ、全部冗談なのだけれどね」
彼女は手で口元を隠しながらさらりととんでもないことを言い放ったのだ。
「は!?」
俺は思考が追いつかず、リビングに響き渡るほどの特大の声を上げてしまった。
その声にキッチンの三人がピタリと動きを止めてこちらを振り向く。
「どうしたの湊くん?」
結愛が不思議そうに首を傾げた。
「湊、手伝わないなら静かにしてろよな!」
健太が玉ねぎの刺激でボロボロと涙を流しながら包丁を握りしめている。
「な、何でもない!ちょっと虫がいただけで!」
俺は必死に手を振って誤魔化し再び雪乃宮さんの方へと身を乗り出した。
「冗談って……じゃあ本当の理由はなんなんだよ!」
俺が声を潜めて問い詰めると雪乃宮さんは悪びれる様子もなく淡々と語り始めた。
「駅前を歩いていたらたまたま健太くんを見つけたのよ。それで挨拶をしようと近づいたらなぜか全力で逃げようとしたから」
「だから捕まえたのか」
「ええ。あまりにも不審な動きだったから逃走経路を先回りして捕獲したわ」
氷の女王の身体能力と計算高さを舐めてはいけない。
「それで、せっかくだからついでに勉強をさせることにしたのよ。彼の学力は放置すれば社会的な損失に繋がるレベルだから」
「……それでなんで俺の家なんだよ」
「その場所として湊くんの家まで健太くんが連れてってくれたのよ。彼、『湊がいないなら勉強しない!俺だけ地獄を見るなんて絶対に嫌だ!』って道端で駄々をこねてしまったから」
雪乃宮さんは呆れたように小さくため息をついた。
「仕方ないから彼の要求を飲んでここまで連行してきたというわけよ」
俺の感動を返してほしい。
ただ単に自分だけが勉強させられるのが嫌で俺を道連れにしようとしただけだ。
俺が抱いたあの熱い友情とある種の独占欲は完全に一人相撲だったらしい。
「……あいつ、後で絶対に玉ねぎの刑にしてやる」
俺がギリッと歯を食いしばると雪乃宮さんは満足そうに微笑んだ。
「ふふっ。でも健太くんのおかげでこうして湊くんの家に来られたのだから結果的には彼に感謝しているわ」
雪乃宮さんの言葉に俺は返す言葉を失った。
キッチンではそんな俺の殺意にも気づかず健太が「お義母さん!ハンバーグの空気抜きは俺に任せてください!」と陽気な声を張り上げている。
結愛も「健太くんすごいすごい!」と手を叩いて笑っている。
俺の親友はどこまでもバカで、どこまでも自分の欲望に忠実で、そしてどこまでも優しい男だった。




