激甘トラップ
ダイニングテーブルの左端からは健太の悲鳴と雪乃宮さんの冷酷な指導の声が響いている。
「いいかしら、健太くん。徳川家康が江戸幕府を開いたのは確かに一六〇三年よ。けれどこの二次方程式の解に歴史の年号を代入するなんてあなたの脳内メモリは完全にバグを起こしているわ」
「ひぃぃっ!ごめんなさい!もう数字が全部武将の顔に見えるんだよぉ!」
親友の尊い犠牲によって雪乃宮さんの注意は完全にそちらへと釘付けになっていた。
そして俺の右隣。
「ふふっ。これで邪魔者はいなくなったね」
結愛が満面の笑みを浮かべて俺の腕にぴたりと身を寄せてきた。
さっきまで背後に漂っていた真っ黒なオーラは嘘のように消え去り、そこには純度百パーセントの天使だけが存在している。
「さあ湊くん!私たちも勉強の続きをしよっか!」
彼女はそう言うと可愛らしいラッピングが施された小さな箱をテーブルの上に置いた。
「なんだそれ?」
「手作りクッキーだよ!さっき湊くんとパンケーキ焼いた後に実は作ってたの」
結愛は蓋を開け甘いバターの香りが漂うクッキーを一枚指先でつまみ上げた。
「ルールは簡単!湊くんがこの英語の長文問題を一問正解するごとに私がこのクッキーをご褒美であげるね!」
「ご褒美って……普通に自分で食べるから置いておいてくれ」
俺が照れ隠しで手を伸ばそうとすると結愛はパッとクッキーを隠してしまった。
「ダメ!私が食べさせてあげるの!ほら湊くん、早く解いて!」
彼女の有無を言わせない笑顔に押し切られ俺は大人しく英語の長文読解に向き合った。
健太の断末魔をBGMにしながら必死に脳を回転させる。
「……よし。これでどうだ」
数分後、解答欄を埋めた俺がペンを置くと結愛は赤ペンを持って覗き込んできた。
俺の顔と結愛の顔の距離が数センチまで近づく。
「んー……完璧!大正解だよ湊くん!」
結愛は嬉しそうに花丸を描くと先ほどのクッキーを再びつまみ上げた。
「じゃあ約束のご褒美ね。はい、あーんするから口開けて?」
「いや、健太たちもいるし……」
「健太くんたちは歴史と数学の融合で忙しいみたいだからこっち見てないよ。ほら、あーん!」
結愛が俺の口元にクッキーを押し当ててくる。
抗い切れるはずもなく俺は少しだけ口を開いてその甘いご褒美を受け取った。
サクッとした食感と共に口いっぱいに手作りの優しい甘さが広がる。
「美味しい?」
「……ああ。すごく美味い」
「えへへ。よかったぁ」
結愛は自分のことのように喜び俺の口元についた小さなクッキーの欠片を指ですくい取った。
そしてその指を自分の口に含みペロリと舐め取ったのだ。
「っ……!」
俺の顔が一気に沸騰したように熱くなる。
「ゆ、結愛!お前なにして……!」
「だって勿体無いもん。さ、次の問題だよ湊くん!」
彼女は全く悪びれる様子もなく次の問題集のページをめくった。
もはや勉強どころの騒ぎではない。
俺の理性は完全にショート寸前だった。
左隣では相変わらず雪乃宮さんの容赦ないスパルタ教育が続いている。
「健太くん。なぜここで因数分解を放棄するの。あなたの集中力はミジンコ以下かしら」
「うわぁぁん!もう無理だぁ!数字がゲシュタルト崩壊してきたぁ!」
ミジンコ以下と罵られながら泣きべそをかく親友。
その真横で俺は義理の姉から手作りのクッキーをあーんされているのだ。
圧倒的な鞭と圧倒的な飴。
同じダイニングテーブルで繰り広げられているとは思えないほどの天国と地獄のコントラストだった。
「はい湊くん!また正解!あーん!」
「……ん」
「ふふっ。湊くんの食べる顔、すっごく可愛い」
結愛は俺がクッキーを咀嚼する姿を幸せそうに見つめながら俺の頭をよしよしと撫でてくる。
「俺は子供か」
「私にとっては可愛い弟で大好きな湊くんだもん。いっぱい甘やかしてあげるね」
結愛の甘い声が鼓膜を直接くすぐる。
一問正解するたびに彼女との距離はゼロになり甘い匂いと柔らかな感触が俺の理性をゴリゴリと削っていく。
雪乃宮さんの氷の圧力からは逃れられたものの俺は結愛という名の底なしの激甘トラップに完全に絡め取られていた。
「ほら湊くん。次の問題も頑張ってね。私、ずっと見てるから」
満面の笑みで俺の腕にすり寄ってくる結愛。
親友の尊い犠牲によってもたらされたこの時間は俺の胃袋と心臓を限界突破の甘さで満たし続けていた。




