陣取り作戦
冷え切った空気のまま俺たちはリビングのダイニングテーブルへと移動した。
健太は完全に怯えきった様子で一番端の席にちょこんと座り黙々とノートを広げている。
俺がその向かい側の席に腰を下ろそうとした瞬間だった。
「湊くん、ここ座って」
結愛が俺の右腕をがっしりと掴み自分が座る予定の席のすぐ隣へと強引に引き寄せた。
「私が隣でじっくり教えてあげるからね」
結愛はにっこりと微笑むがその背後には依然として真っ黒なオーラが渦巻いている。
すると反対側から雪乃宮さんがスッと俺の左隣の椅子を引いた。
「……合理的ではないわね」
雪乃宮さんが手にした参考書をテーブルにコトリと置く。
「湊くんの学習効率を最大化するためには私が隣で直接指導するのが最善の選択よ」
彼女はそう言い放ち俺の左隣に腰を下ろした。
右に魔王、左に氷の女王。
俺は逃げ場のない完全なサンドイッチ状態に陥ってしまった。
「雪乃宮さん?湊くんは私と一緒に勉強するの」
結愛が机の下で俺の右腕にさらに強く抱きついてくる。
さっきまでの甘い密着とは全く違う威圧感だ。
「私が姉として湊くんの成績を管理するのは当然の権利でしょ?」
「……姉弟という不確かな関係性に依存した指導など非効率の極みだわ」
雪乃宮さんが冷たい視線で結愛を射抜く。
「学年トップの私から論理的な解法を学ぶことこそが彼にとって最も利益になるはずよ」
「私だって湊くんに教えられるもん!雪乃宮さんのやり方は堅苦しすぎて湊くんが疲れちゃうよ」
「疲労を考慮した上で適切な休憩時間を組み込むカリキュラムをすでに作成済みよ。あなたの感情的な指導では彼のポテンシャルを引き出せないわ」
二人の視線が俺の頭上で激しく交錯しバチバチと青白い火花を散らしている。
俺は完全に板挟みになり胃の辺りがキリキリと痛み始めていた。
「あの、二人とも……」
俺が恐る恐る口を開くと二人は同時に俺の方を振り向いた。
「「湊くんはどっちに教えてほしいの?」」
完璧に重なった二人の声がリビングに響き渡る。
究極の選択再びである。
ここで結愛を選べば雪乃宮さんの氷の視線に貫かれ、雪乃宮さんを選べば結愛の漆黒のオーラに飲み込まれる。
「……俺、一人でやれるところまでやってみるよ」
俺が震える声でそう言うと二人は不満そうに目を細めた。
「ダメ。湊くんは私がしっかり見てないとサボるでしょ?」
「あなたの自己評価は信用できないわ。私が進捗を厳格に管理するべきね」
結局二人は俺の左右に陣取ったまま一歩も譲ろうとしない。
「……俺、もう帰りたい、よ」
テーブルの端で健太が消え入りそうな声で呟いた。
俺も激しく同意したい気分だったがこの地獄の勉強会から逃れる術はない。
俺の胃は結愛と雪乃宮さんの挟み撃ちによって完全に限界を迎えていた。
右から放たれる漆黒の独占欲。
左から放たれる絶対零度の管理欲。
沈黙のまま繰り広げられる教える権利の奪い合いに俺はただ冷や汗を流すことしかできない。
このままでは課題が終わる前に俺の命が終わる。
そう覚悟を決めた時だった。
「あーっ!ダメだ!全然わかんねぇーっ!」
突如としてダイニングテーブルの端からわざとらしい大声が響き渡った。
ビクッと肩を揺らして声の主を見る。
健太だった。
彼は頭を抱えながら大げさにシャーペンを放り出していた。
結愛と雪乃宮さんの視線が同時に健太へと向く。
「どうしたの健太くん。静かにしてくれないかしら」
雪乃宮さんが冷たく言い放つ。
しかし健太は怯むことなく、さらに大げさな身振りでノートを指差した。
「いやさ!この数学の問題がどうしても解けなくて!雪乃宮さん、ちょっと見てくれないか!?」
健太がグイッとノートを雪乃宮さんの前に押し出す。
俺も横目でそのノートの記述を覗き込んだ。
問題は基礎的な二次方程式だ。
途中式までは完璧に正解へのプロセスを辿っていた。
しかし一番最後の行。
本来ならx=2と書かれるべき解答欄に鉛筆で力強くこう書かれていた。
『x=徳川家康』
白々しいにも程がある。
数学の答えに歴史上の人物が急にログインしてくるわけがない。
しかもよく見ると一度書いた2を消しゴムでわざわざ消して上から書き直した跡すら残っていた。
「……健太くん」
雪乃宮さんの声がさらに一段階冷え込んだ。
「あなた、脳の処理回路に致命的なエラーでも発生したのかしら。数式の解が江戸幕府を開くという論理的飛躍はどこから来たの?」
「いやー!俺ってバカだからさ!どうしても数字が武将に見えちまうんだよ!」
健太は額に滝のような汗を流しながら必死に作り笑いを浮かべている。
「だから雪乃宮さん!俺に付きっきりで一から数学の基礎を叩き込んでくれ!湊の相手をしてる暇はないぜ!」
彼は自ら進んで氷の女王のターゲットを自分に向けたのだ。
雪乃宮さんは深くため息をつき俺の左隣からスッと立ち上がった。
「……仕方ないわね。あなたのその絶望的な学力を放置するのは私の矜持が許さないわ」
雪乃宮さんが健太の隣へと移動していく。
その瞬間健太は雪乃宮さんの死角から俺に向かって力強くサムズアップをして見せた。
『あとは任せたぜ。親友!』
彼の目は確かにそう語っていた。
「じゃあ湊くんの勉強は私が独り占めだね!」
結愛が満面の笑みで俺の右腕にさらに密着してくる。
俺は心の中で親友の気高き犠牲に涙を流しながら深く敬礼をした。




