無情なチャイム
結愛の吐息が俺の首筋にかかり理性がついに決壊しかけたその時だった。
ピンポーン。
無情にも玄関のチャイムが静寂を切り裂いた。
「……うそでしょ」
結愛が俺の胸に顔を埋めたまま恨めしそうな声を漏らす。
俺も心臓が飛び跳ねるほど驚き、一気に現実に引き戻された。
「誰か来たみたいだな。ちょっと見てくるよ」
俺は名残惜しそうに俺の服を掴む結愛の手を優しく解き、インターホンのモニターへと向かった。
モニターの画面に映し出された二つの人影を見て俺は完全に血の気が引いた。
一人は死んだ魚のような目をした親友の健太。
そしてその後ろには涼しげな顔をした雪乃宮さんが立っていた。
画面越しのマイクから彼女の凛とした声が響く。
「湊くん、いるんでしょ。約束通り夏休みの課題を終わらせに来たわ」
モニター越しでも伝わってくる絶対零度のプレッシャー。
なぜ健太が捕獲されているのかという疑問すら恐怖で掻き消される。
「結愛。雪乃宮さんと……健太だ」
俺が振り向いて告げるとソファに座っていた結愛の動きがピタリと止まった。
「……チッ」
結愛の口から信じられないほど低い舌打ちが漏れた。
「え?」
「ううん?なんでもないよ?」
その顔は優しさそのもののはずだが、さっきまでの限界突破の甘えん坊はどこへやら。
リビングの温度が一気に急降下し、結愛の背後に真っ黒なオーラが立ち昇り始める。
「せっかく湊くんと二人きりでいいところだったのに……」
結愛はゆっくりと立ち上がった。
その顔には天使の面影など微塵もなく完全に魔王のそれだった。
「湊くん。ちょっと待っててね」
「ゆ、結愛?」
「お勉強の邪魔をする悪い子は私が追い返してあげる」
彼女は暗黒の微笑みを浮かべながら玄関へと歩き出した。
ガチャリと重い金属音が響いた。
結愛がゆっくりと玄関のドアを開ける。
そこには涼しげな顔をした雪乃宮さんと完全に生気を失った健太が立っていた。
「あら雪乃宮さん。こんな時間にどうしたの?とぉっても優秀な雪乃宮さんがごくごく普通のマナーを知らないとは思えないのだけれど」
結愛は口角を完璧な角度に上げて微笑んだ。
しかしその瞳の奥には一切のハイライトが存在しない。
背後から見ている俺ですら凍りつきそうなほどの絶対零度のプレッシャーだ。
「ひっ、」
健太は完全に怯えきって雪乃宮さんの背後に隠れようとしている。
「湊くんとの約束よ。夏休みの課題を終わらせに来たの」
雪乃宮さんは結愛の暗黒オーラを涼風のように受け流した。
「ごめんなさいね。湊くんは今お昼寝中だから帰ってくれるかな?」
結愛が首を傾げて可愛らしく牽制する。
完璧な嘘だ。
俺はつい前まで結愛に腕枕をしながら起きていたのだから。
このまま雪乃宮さんが引き下がってくれれば俺の命は助かる。
しかし相手は学年トップの頭脳を持つ氷の女王だった。
「……嘘ね」
雪乃宮さんが短く冷たく言い放った。
「インターホンが鳴ってから結愛さんがドアを開けるまでの所要時間。そして玄関に揃えられたスリッパの向き。極め付けはモニター越しに聞こえた湊くんの動揺した衣擦れの音よ。結愛さん、あなたは極めて冷静だから私たちの来訪ごときで動揺するとは思えない」
彼女は言葉を切ることなく淡々と事実を並べ立てる。
「これだけの証拠が揃っているのにお昼寝中という非論理的な言い訳が通用すると思っているのかしら」
結愛の完璧な笑顔がピクッと引きつった。
「それに結愛さん。あなたのそのわずかに乱れた髪と上気した頬。先ほどまで湊くんと密接な物理的接触を図っていたことは明白だわ」
痛いところを正確に突かれた。
俺と結愛は先ほどまでソファで限界突破の密着状態にあったのだ。
結愛の背後に渦巻く暗黒のオーラがさらに濃さを増していく。
「……だから何?そうよ。今は私と湊くんの時間なの。邪魔しないでくれる?」
結愛の声音から完全に甘さが消え去った。
地を這うような低い声が玄関に響く。
しかし雪乃宮さんは全く動じることなくスッと結愛の横を通り抜けようとした。
「邪魔をしているのは結愛さんの方よ。彼の学力向上という合理的な目的を阻害する権利はあなたにはないわ」
「ちょっ、」
雪乃宮さんは結愛の肩をすり抜けそのまま玄関に足を踏み入れた。
「おじゃまするわね、湊くん」
「あ、ああ……いらっしゃい、ませ?」
リビングから顔を出した俺は引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。
「お、俺はこれで帰っていいかな……」
玄関に取り残された健太が涙声で命乞いをする。
「ダメよ健太くん。あなたの課題も終わっていないのだから」
雪乃宮さんは振り返ることもなく冷酷に捕虜の逃亡を阻止した。
「うわぁぁぁっ!俺の夏休みがぁぁっ!」
健太の悲鳴が我が家に虚しく響き渡る。
結愛がため息を吐きながらパタンと重々しく玄関のドアを閉めた。




