甘い匂い
まだ午後二時を回ったばかりの眩しい太陽。
絶望する俺の横で結愛はリモコンの停止ボタンをポチッと押した。
テレビの画面から血みどろの映像が消え静寂が戻る。
「さすがに映画はもう飽きちゃったね」
結愛が背伸びをして小さくあくびをした。
俺は心底ホッとして大きく息を吐き出す。
「そうだな。俺の精神力も限界だったし」
「じゃあ気分転換しよっか!」
結愛は立ち上がるとパッと花が咲いたような笑顔を向けた。
「湊くん、一緒におやつ作ろ!」
「おやつ?」
「うん!パンケーキ焼きたい気分なの」
さっきまでチェーンソーが唸る映画を見ていた口でよくそんな可愛らしい提案ができるものだ。
しかしこのまま不毛な映画マラソンを続けるよりは百倍マシである。
「わかった。俺も手伝うよ」
俺たちは暗いリビングから明るいキッチンへと移動した。
結愛は手際よく朝と同じピンク色のエプロンを身につける。
「はい湊くん。これ着てね」
渡されたのは無地のシンプルなエプロンだ。
俺は大人しく首から下げて後ろで紐を結ぶ。
結愛は戸棚からボウルと泡立て器を取り出し冷蔵庫から卵と牛乳を並べた。
「じゃあ湊くんは混ぜる係ね」
「了解」
ボウルにホットケーキミックスの粉をドサッと入れる。
そこに卵を割り入れ牛乳を少しずつ注いでいく。
俺が泡立て器でゆっくりと混ぜ始めると結愛が横からひょっこりと顔を出してきた。
「湊くん上手だね」
「別に、これくらい誰でもできるだろ」
「ふふっ。でも湊くんが作ってくれるとなんでも美味しくなりそう」
結愛は俺の腕にぴたりとくっつきながら手元を覗き込んでいる。
さっきのホラー映画の時よりも距離が近い。
彼女のシャンプーの甘い香りが漂ってきて俺は手元が少し狂いそうになった。
「もうちょっと早く混ぜた方がダマにならないよ」
結愛が俺の手を上から包み込むようにして泡立て器を動かし始めた。
「おい結愛、ちょっと近いって」
「いいじゃん。共同作業なんだから」
彼女がいたずらっぽく笑ってさらに力を込めた瞬間だった。
バフッ。
勢い余ってボウルの中の白い粉が盛大に宙を舞った。
「あ」
「うわっ」
細かい粉が雪のように俺と結愛の顔に降り注ぐ。
俺の鼻の頭が真っ白になり結愛の前髪にも粉がべっとりと付着していた。
「……湊くんの顔、面白い」
結愛が吹き出してクスクスと笑い始めた。
「お前が急に力入れるからだろ」
俺はため息をついて結愛の髪についた粉を手で軽く払ってやる。
すると結愛は自分の頬についた粉を指ですくい取り俺の頬にピッとこすりつけてきた。
「なにするんだよ」
「お返し!湊くんも真っ白になーれ」
俺たちはキッチンでボウルを挟んだまま白い粉をつけ合って無邪気に笑い合う。
朝のピリピリとした尋問の空気は完全に消え去りそこにはただ甘くて穏やかな時間が流れていた。
フライパンに生地を流し込むと甘くて香ばしい匂いがキッチンいっぱいに広がっていった。
「うーん、いい匂い!」
結愛が目を輝かせながらフライパンを見つめている。
きつね色に焼き上がったパンケーキを皿に移しバターとたっぷりのメープルシロップをかけた。
俺たちはダイニングテーブルに向かい合わせに座った。
「いただきます!」
結愛がフォークで小さく切り分けパクリと口に入れる。
「んんーっ!すっごく美味しい!」
彼女は頬に手を当てて幸せそうに目を細めた。
俺も一口食べてみる。
外はサクッと中はフワフワで完璧な焼き加減だ。
「本当だ。うまく焼けたな」
「うん!やっぱり湊くんと一緒に作ると特別だね」
結愛はニコニコと笑いながら俺の顔を見つめてくる。
「ねえ湊くん」
「ん?」
「今日一日、ずっと私だけを見ててくれてありがとうね」
その笑顔は朝の魔王のような冷たさは微塵もなく本物の天使のように無垢だった。
強引な映画マラソンから始まった軟禁状態だったがこんな甘いおやつタイムで終わるならそれも悪くないかもしれない。
俺は残りのパンケーキを口に運びながら結愛の底知れない魅力に少しだけ降参していた。




