気だるい朝
朝の光がカーテンの隙間から差し込み俺の顔を照らした。
重い瞼をこすりながらベッドから身を起こす。
全身の筋肉が軋むような悲鳴を上げていた。
昨日の江の島でのビーチバレーの死闘。
そしてゴリの大胸筋による理不尽な圧迫の代償だ。
「……いてて」
首を回すとゴキリと鈍い音が鳴った。
部屋を出て階段を下りるとリビングから香ばしい匂いが漂ってきた。
ベーコンを焼く匂いだ。
「おはよう湊くん!」
キッチンに立つ結愛がフライパンを持ったまま振り返った。
ピンク色のエプロン姿にポニーテールが揺れる。
昨日の真っ黒なオーラは微塵も感じられない。
いつもの明るくて可愛い義理の姉の姿だった。
「おはよう結愛。いい匂いだな」
「ふふん。今日は湊くんの大好きな目玉焼きとベーコンだよ」
俺はほっと胸をなでおろしながらダイニングの椅子に腰を下ろした。
どうやら昨日のカオスな海イベントの記憶はリセットされたらしい。
平和な夏休みの日常がようやく始まる。
そう確信して俺が麦茶の入ったグラスに手を伸ばした時だった。
「ねえ、湊くん」
結愛がコンロの火を止めキッチンカウンター越しに俺を見つめてきた。
その声のトーンがさっきより半音だけ下がっている。
グラスを持つ俺の手にピタリと嫌な汗が滲んだ。
「帰り道、楽しかったね」
「あ、ああ。水族館もシーキャンドルも綺麗だったしな」
「うん。私、疲れちゃって帰りの電車で湊くんの肩で寝ちゃったけど」
結愛はにっこりと微笑んだ。
だがその瞳の奥には一切の光が宿っていなかった。
「私が寝てる時、横で灰ちゃんと内緒話してたよね?」
俺の心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
「えっ」
「私、少しだけ目が覚めちゃって。灰ちゃんが顔を真っ赤にして湊くんに何か言ってたの見えちゃったんだ」
結愛の笑顔がさらに深くなる。
「あれ、何話してたのかな?」
平和な朝の空気は一瞬にして凍りつきリビングは完全なる尋問室へと変貌を遂げた。
俺の脳裏に昨日の灰の顔がフラッシュバックする。
『湊と一緒に海に行きたかったの!』
『来年もだからな』
あんな破壊力抜群のデレ台詞をこの魔王の前で正直に暴露できるわけがない。
灰の乙女心を守るためにも、俺自身の命を守るためにも絶対に秘密にしなければならない。
「い、いや!別に大した話じゃないぞ!」
俺は引きつった笑みを浮かべて必死に首を振った。
「大した話じゃないのにあんなに顔赤くしてたの?」
結愛がじりじりとダイニングテーブルに歩み寄ってくる。
その手にはなぜか金属製のフライ返しが握られていた。
「灰ちゃん、海が青春ぽいとか、来年もどうとか……そんな単語が聞こえた気がするんだけど」
完全に聞かれているじゃないか。
タヌキ寝入りどころの騒ぎではない。
「そ、それはだな!来年もみんなで海に行きたいなっていう、ただのグループの親睦を深めるための建設的な意見交換で……!」
「ふーん。みんなで、ね」
結愛は俺の目の前にドンと朝食のプレートを置いた。
見事な半熟の目玉焼きとカリカリのベーコン。
しかし俺の視線はその横に添えられたケチャップの文字に釘付けになった。
そこには真っ赤なケチャップで『うそつき』と綺麗な字で書かれていたのだ。
「さあ湊くん。冷めないうちにたくさん食べてね」
「……いただきます」
俺は震える手で箸を手に取った。
夏休みの日常は決して平和なものではない。
昨日以上の心理戦がすでにこの食卓から始まっていることを俺はベーコンを噛み締めながら痛感していた。




