真夏の太陽と氷点下の波打ち際
ギラギラと容赦なく照りつける真夏の太陽。
潮の香りを運んでくる生ぬるい海風。
ざざーっと打ち寄せる波の音が夏休みの始まりを告げている。
ここは江ノ島の海水浴場だ。
本来なら若者たちの熱気と解放感に包まれた最高のシチュエーションであるはずだ。
しかし俺の体感温度だけはなぜか完全に氷点下まで下がりきっていた。
俺の右腕には信じられないほどの力でしがみつく柔らかな感触がある。
結愛だ。
彼女は俺の腕をがっちりとホールドしたまま見事なまでの満面の笑みを浮かべていた。
「……ねえ、湊くん」
甘くて可愛らしい声。
だがその瞳の奥には一切の光が宿っていなかった。
底なしの漆黒の沼がそこにある。
「私、湊くんから家族旅行って聞いてたんだけどな」
「あ、あの……それはですね」
俺は滝のような冷や汗を流しながら視線を泳がせた。
「どうしてこんなに大勢の『お友達』がいらっしゃるのかな?」
結愛の視線の先には見事に勢揃いしたいつものメンバーがいた。
派手な浮き輪を抱えてアロハシャツを着た健太。
可愛いパーカーを羽織って少しもじもじしている美咲ちゃん。
海にまで参考書を持参して日傘を差している雪乃宮さん。
そして「暑い」と眉間を寄せてだるそうに立っている灰だ。
「た、たまたまみんな予定が空いてて!せっかくだから大人数の方が楽しいかなって……!」
俺が必死に絞り出した言い訳を聞いて結愛の笑みがさらに深くなった。
「へえ?たまたまなんだ」
結愛の指が俺の腕の肉にギリギリと食い込む。
痛い。物理的に痛い。
「私のために水着まで一緒に選んでくれたのに、湊くんはみんなで海に行きたかったんだね?」
その言葉にはとんでもない怨念がこもっていた。
周囲のメンバーはその異様な空気を察知して完全にフリーズしている。
「……なぁ湊。お前の姉ちゃん、すげえ圧だな」
健太が数歩後ろに下がりながら引きつった苦笑いを浮かべていた。
「み、湊くん……大丈夫かな……」
美咲ちゃんも完全に気圧されて冷や汗を流している。
灰は「めんどくさ……」と呟いてそっぽを向いた。
唯一雪乃宮さんだけが日傘の下から氷のような視線で結愛を静かに観察している。
「……あれが湊くんの義理のお姉さん。なるほどね」
雪乃宮さんの呟きが妙に不穏だった。
照りつける太陽の下で、俺の平和な海イベントは始まる前から完全に絶望の公開尋問へと変わっている。
俺の腕に食い込んでいた結愛の指の力が、ふっと緩んだ。
彼女は氷点下の空気を纏ったまま、ゆっくりと羽織っていた薄手のパーカーのジッパーに手をかけた。
「……まあ、いいや。せっかくの海だもんね」
ジーッという音が波の音に混ざってやけに大きく響く。
パーカーがふわりと砂浜に落ちた。
そこにあらわになったのは、あのショッピングモールで俺と一緒に選んだ、白いフリルの水着だった。
太陽の光を反射するような眩しい白。
華奢な肩から続く女性らしい滑らかな曲線が、惜しげもなく周囲の視線に晒される。
普段の家着からは想像もつかない大人っぽさと可愛さの同居した姿に、俺は思わず息を呑んだ。
結愛は俺の顔を覗き込み、さっきまでの漆黒のオーラが嘘のようなとびきり甘い笑顔を向けた。
「ほら湊くん、海に入ろ?」
そして彼女は俺の腕に自分の体を押し当てるようにして、再びがっちりとホールドした。
「ちょ、結愛……近っ……」
「いいでしょ?家族なんだし」
結愛の視線が、俺を通り越して後ろの女子たちへと向けられた。
美咲ちゃん、雪乃宮さん、そして灰。
彼女たちを見据える結愛の瞳には、明確な勝者の余裕と、底知れない黒い笑みが浮かんでいた。
「これね、湊くんが私のためだけに選んでくれた水着なんだ〜」
周囲の空気がピキッと凍りつく音がした。
「だから今日は、湊くんは私のもの。……だよね?」
有無を言わせない完全なるマウント宣言。
それは他の女子たちに対する、宣戦布告だった。
美咲ちゃんが着ているパーカーの裾をギュッと握りしめるのが見えた。いつもは温厚な彼女の顔から笑顔が消えている。かつての恐怖は完全に消え去ったようだ。
雪乃宮さんの日傘を持つ手にギリッと力がこもり、その氷のような視線は結愛の腕に絡めとられた俺を射抜いていた。
灰は「はっ」と鼻で笑いながらも、その目は獲物を狙う猛禽類のように鋭くなっている。
俺は砂浜に突き刺さるような周囲の男たちの嫉妬の視線と、背後から放たれる三方向からの凄まじい殺気に完全に板挟みになっていた。
「……湊」
少し離れた安全圏に退避した健太が、同情に満ちた目で俺を見た。
「お前、今日で寿命尽きるかもしれないな……南無」
親友のその的確すぎる予言を、俺はただ涙目で肯定することしかできなかった。
俺の平和な夏休みは、海に入る前からすでに激しい修羅場の波に飲み込まれる運命にあるようだ。




