第2話:初めてのブラッシングと、旦那様の涙
「な、なんと……っ!?」
私が旦那様――黄金色の大きなわんちゃんに抱きついた瞬間、部屋の扉から動かなかった老執事さんが、裏返った声を上げた。
無理もない。彼の目には、私が「凶悪な魔獣の首に、自ら飛び込んだ命知らずの令嬢」に見えているのだから。
けれど、私の腕の中にいる旦那様は、獰猛さなんて微塵もない。
むしろ、生まれて初めて人に抱きしめられたかのようにショックを受けて、大きな体をカチコチに硬直させている。
「あ、あの……エルサ嬢……? 苦しく、ないですか? 僕は醜くて、触ると汚れる、忌み子なのに……」
くぅん、と、本当に情けない声が聞こえてきそうだ。
見れば、黄金色の綺麗なお耳が、不安そうにペタンと完全に後ろに寝てしまっている。
「いいえ、全く! むしろ最高にいい匂いがします! お日様の匂いです!」
「お、お日様……? 僕の体から放たれているのは、どす黒い瘴気の霧のはずでは……」
周囲の偏見のせいで、自分の香りすら呪いだと思わされているなんて。私は胸が締め付けられるような愛おしさを覚え、旦那様の背中を優しくポンポンと叩いた。
「いいですか、旦那様。私はあなたの妻になるためにここへ来ました。あなたを置いて逃げたりしません。……まずは、そのお疲れの体を綺麗にさせてくださいね」
そう言って名残惜しいものの、一旦離れる。そのまま素早く入り口を目指した。
扉のすぐ傍に置いてある茶色い四角い鞄。私は実家から持ってきた、唯一の私物である旅鞄を開ける。
中から取り出したのは、一本の木製のブラシだ。実家では馬たちの世話も押し付けられていたため、毛並みを整える道具の扱いには自信がある。
そしてこれはなんと、実家近くの湖で、よく会っていた子からもらった毛で作った特製品。毎日ブラッシングして仲良くなった。純白のようで見る角度からは、透き通るような毛並みをしていた巨大な白狼。
その子の毛から作ったブラシは、静かな美しさを湛えていた。
私はブラシを握り締め、早速と旦那様の傍に戻る。
「さ、旦那様。少しだけ、背中をお借りしますね」
「あ……う、うん。好きにしてくれ。痛くしても、怒らないから……」
その言葉に思わず眉を寄せる。どこまで虐げられ慣れているのだろう。
滲み出る悲しさを抑え、旦那様のふかふかな黄金色の背中に、そっとブラシをあてた。
シャカ、シャカ、と、心地よい音が静かな部屋に響く。
「……っ」
最初の一なでで、旦那様が小さな悲鳴のような吐息を漏らした。
驚かせてしまったかと手を止めようとすると、「あ、いや、違うんだ……」と、旦那様が慌てて大きな頭を振る。
「痛く、ない。すごく……気持ちよくて。あったかくて……。その、もっとしてほしい……」
琥珀色の大きな瞳を潤ませ、上目遣いで私を見つめてくる。
大型犬の破壊力、凄まじすぎる。
「はい、喜んで!」
パッと気持ちが弾んだ私は、それからなお心を込めて、丁寧にブラッシングを続けた。
王都からの激務のせいなのか、彼の黄金色の毛並みには、目に見えない細かい汚れがあった。その中に、黒い煤のようなパサつきが溜まっているのも見えた。
けれど、私がブラシを通すたびに、その毛並みがみるみるうちに、本来の黄金色の輝きを取り戻し、ツヤツヤとした艶めきを放ち始める。
「あ、ああ……」
そうしているうちに、旦那様の目から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ちた。
床の絨毯に、大粒の涙がシミを作っていく。
それを見て驚いた私は、慌てて手を止めた。
「だ、旦那様!? どこか痛かったですか!?」
「違う、違うんだエルサ嬢……。僕は、生まれてからずっと、誰にも優しく触ってもらえなかったから……。触られる時はいつも、叩かれるか、怯えて武器を向けられるかだけだったんだ。……こんなに優しくされたのは、初めてで……」
大きな前脚で顔を覆い、子供のようにしゃくりあげる旦那様。
その背中からは、先ほどまで部屋を満たしていたというどす黒い霧と思われるものが、完全に消え去っていたらしい。
扉の近くで見守っていた老執事が、ハンカチで目を真っ赤にしながら、ガタガタと震える声で呟く。
「お嬢様……。旦那様の周りの瘴気が、消えていきます……。そればかりか、旦那様の背中のトゲが消えて……高貴な、神々しいお姿に……!」
「え?」と私が首を傾げた、その時だった。
涙を拭って顔を上げた旦那様の姿が、不意に揺らめいた。
黄金色のふかふかな毛並みが、すうっと人の肌へと変わっていく。
そこに現れたのは――
カーテンの隙間から入り込む光を、反射してきらめく、見事な黄金の髪。
憂いを帯びた、深い琥珀色の瞳。
そして、彫刻のように整った、国中を探しても絶対に見つからないほどの美形の青年だった。
その彼が裸でうずくまった姿勢のまま、顔だけ上げて不思議そうに頭を傾ける。
「……エルサ? どうしたんだい? 急に手を止めて……」
薄暗い室内には、いつの間にか白煙のようなものが漂っている。けど彼の腕の隙間から覗く、鎖骨や胸元は鍛え上げられていて逞しい。
自己肯定感ゼロの大型犬わんちゃんだと思っていた旦那様は、人間の姿に戻ると、とんでもないポテンシャルを秘めた男性だったようだ。
混乱する頭で、目を瞬かせる。
「あ……あの、旦那様……?」
「うん……あの、ごめん。まだブラッシング、してほしい。……ダメ、かな?」
人間の麗しい姿を得ても、気づかない旦那様は、いまだお耳をペタンと寝かせるような寂しげな仕草のままだった。
その状態で上目遣いをしながら、私の服の裾をキュッと掴んでくる。
(あ、無理。人間の姿になっても可愛すぎる。心臓が持たない……!)
ついつい、その場でへたり込んで、両手で顔を覆う。焦った旦那様が、心配した様子ですぐ近くに顔を寄せては「やはり気分が……!?」「無理は、しないで……!」と声をかけてきていた。
でも、それすら可愛いと思ってしまう。
そして、その時の私はまだ気づいていなかった――このブラッシングによって、旦那様の呪いが早くも解け始めるという、予想外の奇跡が起きていたことに。




