表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

第2章:書き換えられる距離感

ふたりが付き合うまでの話です。

神保町の喫茶店での再会後、ふたりのやり取りはマッチングアプリからLINEへと移り変わりました。しかし、画面越しに交わされる言葉は、どこか慎重で、互いの輪郭を確かめるような丁寧さに満ちていました。

陽葵にとって、遥希は依然として『先生』であり、北極星のように正解を示してくれる存在。

遥希にとって、陽葵は『かつての教え子』であり、守るべき過去の断片。

その均衡が崩れたのは、再会から三度目の、夏の終わりの夜でした。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


仕事の大きなプロジェクトを終えた陽葵は、

遥希に誘われ、夜の隅田川沿いを歩いていました。川面を撫でる風は少しだけ秋の気配を孕んでいます。

遥希「デザイン、無事に公開されたそうですね。お疲れ様」

陽葵「ありがとうございます。……でも、終わってしまうと、なんだか急に自分が空っぽになったみたいで。中学の時、夏休みが終わる直前の夕方みたいな気持ちです」

陽葵の言葉に、遥希は足を止めました。街灯の下、彼の眼鏡の奥の瞳が、かつての国語準備室で見せたような、深い知性を湛えて彼女を見つめます。

遥希「木下さん。君はもう、教室の隅に隠れている女の子じゃない。誰かの心を動かす『言葉』を、自分の手で形にできる大人だ。自分を過小評価するのは、そろそろ終わりにしませんか」

その言葉は、優しく、けれど明確に彼女を「教え子」という箱から連れ出そうとするものでした。陽葵は胸の奥が熱くなるのを感じ、思わず口を突いて出ました。

陽葵「……先生。先生は、今の私のことも、ちゃんと見てくれていますか?」

『先生』という呼びかけに、遥希は少しだけ困ったように眉を下げました。そして、意を決したように彼女の隣に並び、視線を川の向こうへと向けました。

遥希「正直に言うよ。……アプリで君を見つけた時から、僕は教師としての倫理観と、ひとりの男としての好奇心の間でずっと揺れていた」

遥希の声は、いつもより少しだけ低く、かすれていました。

遥希「君との再会は、僕にとっても救いだった。でも、君が僕を『先生』と呼ぶたびに、僕はあの日、君の頭を撫でてやれなかった過去に縛られてしまう。……今の僕は、君の先生じゃない。ただの、本が好きな、少し不器用な男なんだ」

遥希はゆっくりと陽葵の方を向き、彼女の目を見つめました。

遥希「陽葵さん。……君を、一人の女性として知りたいと思っている。これは、教育的な指導でも、過去の埋め合わせでもない。僕の、身勝手な願いです」

陽葵「⋯⋯⋯」ツーッ

陽葵の目から、一筋の涙がこぼれました。14歳のあの日、喉の奥に仕舞い込んだ想いが、10年の時を経てようやく形を成した瞬間でした。

陽葵「……はい、遥希さん」

初めて名前で呼ばれた藤村は、驚いたように目を見開き、それから今までで一番柔らかな笑みを浮かべました。彼は戸惑いながらも、陽葵の細い指先をそっと包み込むように握りました。

かつて、赤ペンで作文を添削してくれたその手は、想像していたよりもずっと大きく、そして温かかった。

遥希「これからは、僕たちの物語を書きましょう。……ゆっくりでいい。期限も、文字数制限もない物語を」


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


その後、ふたりは正式に交際を始めました。

陽葵の仕事が忙しい時は、藤村が彼女の好きな作家の新刊を差し入れ、藤村が文化祭の準備で疲れている時は、陽葵が彼の肩を貸す。

かつて卒業文集に閉じ込められた『好き』という言葉は、今やふたりの日常の中で、形を変えて何度も交わされています。

マッチングアプリという現代的なツールが引き合わせたのは、単なる過去の再放送ではありませんでした。それは、止まっていた時間を動かし、お互いを『今』を生きるパートナーとして選び直すための、必然のアルゴリズムだったのです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ