第1章:デジタルな孤独と青い光
プロローグの続きです。
それから10年後、2014年の午後11時。東京の喧騒から少し離れたワンルームマンションで、木下陽葵はディスプレイの眩しさに目を細めていた。クライアントからの度重なる修正依頼。ピクセル単位の調整を繰り返す指先は冷え切り、視界の端ではスマートフォンの通知ランプが、まるで急かすように規則正しく明滅している。
ふと手に取った画面には、中学時代の同級生たちが集うグループLINEの通知が溢れていた。
『結婚おめでとう!』『赤ちゃん、パパ似だね!』
画面を埋め尽くす色鮮やかな幸福の断片。それに引き換え、自分の手元にあるのは、締め切り間際の無機質なデザイン案と、昨日から始めたマッチングアプリの「いいね」という味気ない記号だけだ。
陽葵「……私、あの頃から何も変わってないな」
十四歳の頃、教室の隅で独り、文庫本を盾にして世界から隠れていた自分。今の自分も、Webデザインという盾の後ろに隠れているだけではないか。そんな焦燥感に突き動かされ、陽葵は機械的にアプリの画面をスクロールした。
一方、場所を同じくして、私立高校の国語準備室。国語教師・藤村遥希は、同僚の体育教師・田中祐介からなかば強引に操作させられたスマートフォンの画面を、困惑した表情で見つめていた。
田中「藤村先生、いいですか? 今の時代、出会いは待つもんじゃなくて、タグ付けして検索するもんなんですから!」
田中の威勢のいい声が頭をよぎる。三十代後半。独身。趣味は読書と散歩。そんな自分に何が期待されているのか見当もつかなかったが、教育実習生の指導や進路相談に追われる日々の中で、ふと訪れる“静寂”が最近、少しだけ重く感じられるようになっていたのも事実だった。
何人かのプロフィールをやり過ごしていた時、藤村の指が止まった。
『好きなもの:読書(特に太宰と寺山修司)』
『一言:言葉が、誰かの救いになることを信じています』
添えられた写真は、少しはにかんだような、けれど芯の強そうな瞳をした女性。どこか見覚えのある、けれど今の彼の記憶には明確な形を結ばない、遠い日の残像のような感覚。
藤村は、ためらいながらもそのプロフィールに「いいね」を送った。
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マッチングが成立したのは、それからわずか数分後のことだった。
「こんにちは。プロフィールを拝見しました。寺山修司がお好きなんですね」
陽葵の心臓が、跳ねるように脈打った。相手の名前は『ハル』。年齢は36歳。住まいは都内。そして何より、彼が送ってくるメッセージの『句読点の位置』と『柔らかい言葉選び』が、陽葵の記憶の奥底に眠っていた、ある人物の声を呼び覚ました。
(……まさか。そんなはずない)
確信を持ちたい自分と、幻想であってほしくない自分がせめぎ合う。やり取りを重ねるうちに、彼が元々は公立中学の教師をしていたこと、今は私立に籍を置いていることが明かされた。陽葵は震える指で、確信に触れる質問を投げかけた。
陽葵「……もしかして、昔、緑ヶ丘中学校にいらっしゃいませんでしたか?」
数分間の、永遠のような沈黙。
やがて、画面に現れた文字は、陽葵の視界を滲ませるに十分なものだった。
ハル「驚きました。もしかして、教室の一番後ろの窓際で、いつも『銀河鉄道の夜』を読んでいた木下さんですか?」
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週末。待ち合わせ場所に選ばれたのは、古書店が立ち並ぶ神保町の静かな喫茶店だった。
現れた藤村は、少しだけ目尻に皺が増えていたけれど、あの頃と同じ、冬の終わりの日差しのような穏やかな空気を纏っていた。
遥希「木下さん……いえ、陽葵さん。本当に、立派な大人になられたんですね」
向かい合って座る二人の間には、十年という月日が川のように流れている。けれど、ひとたび言葉を交わせば、その距離は驚くほど速やかに縮まっていった。
陽葵「先生、私。あの頃の先生の授業に、ずっと救われていたんです。今の仕事も、何かを表現したいと思ったのは先生の影響で」
陽葵が意を決して伝えると、藤村は少しだけ照れくさそうに目を伏せ、カバンから一冊のノートを取り出した。それは、彼が今も大切に保管しているという、当時の教え子たちの作文のコピーだった。
遥希「君の書く文章には、他の誰にもない独特の『光』があった。僕はね、君がいつかその光を形にする日が来るのを、ずっと楽しみにしていたんだよ。卒業文集に書いてくれたあの言葉、実は僕の方こそ、救われていたんです」
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窓の外では、夜の帳が下り始めている。かつての教師と生徒。今は、アプリのアルゴリズムが引き合わせた、一組の男女。
スマートフォンの無機質な通知音はもう気にならなかった。
「先生。今度はアプリの紹介文じゃなくて、私の本当の言葉を聞いてくれますか?」
陽葵の言葉に、藤村は優しく微笑んで頷く。
二人の物語は、卒業文集の最後のページをめくり、真っ白な新章へと書き加えられようとしていた。




