プロローグ:雨の日の、静かな熱量
プロローグ 〔陽葵の、中学2年生だった頃の回想(陽葵の心に藤村先生への恋愛感情が芽生えた時の話)〕です。
1994年の6月。
窓の外では、梅雨の湿った空気がグラウンドの土の匂いを運んでいた。
中学2年生の木下陽葵にとって、昼休みは『平穏』という名の孤独を享受する時間だった。教室の喧騒——部活の試合結果に一喜一憂する男子や、スクールカーストの頂点で笑い合う女子たちの声——は、彼女の周りだけ透明な壁で遮断されているかのように遠い。陽葵は自分の席で、図書室から借りてきた古い文庫本に潜り込み、文字の海を泳ぐことで自分を守っていた。
??「……そこ、暗くないか?」
頭上から降ってきたのは、低く、けれど耳に心地よい重さを持った声だった。
驚いて顔を上げると、国語担当の藤村先生が立っていた。手には出席簿と、使い古された万年筆。彼は陽葵の机の端にある、薄暗い影を指差していた。
陽葵「あ……。大丈夫、です。」
藤村先生「いや、目は大切にしないとな。国語教師としては、君のような読書家が視力を落とすのは損失だ。」
藤村先生は少しだけ目尻を下げて微笑むと、隣の空いている席の椅子を静かに引き、腰を下ろした。普段の授業では教壇という「境界線」の向こう側にいる彼が、今はすぐ隣にいる。陽葵の心臓が、読んでいる小説のどんな劇的な展開よりも激しく脈打った。
藤村先生「何を読んでいるんだ?」
陽葵「……梶井基次郎の、『檸檬』です。」
陽葵が震える手で表紙を見せると、藤村先生の瞳がわずかに見開かれた。
藤村先生「『檸檬』か。いいな。……あの最後、丸善の棚に檸檬を置いて出ていく場面。あの一瞬の、爆弾を仕掛けたような妙な昂揚感。あれは、日々の鬱屈を知っている者にしか分からない光だと思わないかい?」
陽葵は息を呑んだ。
クラスの誰も——親でさえも、自分がなぜこの暗い物語に惹かれるのかを理解してくれなかった。「暗い本ばかり読んでいないで、もっと明るい子と遊びなさい」と言われるのが常だった。けれど、この人は違う。
陽葵「私……。あの檸檬が、冷たくて、少しだけ重いっていう描写が好きです。自分の不安も、あんな風に形のある何かに置き換えられたらいいのにって。」
ポツリと、けれど確かな意志を持って零れた陽葵の言葉に、藤村先生は真剣な表情で頷いた。彼は陽葵を『大人しいだけの生徒』としてではなく、一人の『読者』として見つめていた。
藤村先生「木下さんの感性は、とても鋭い。言葉の裏側にある温度を感じ取れるのは、一つの才能だよ。」
藤村先生は立ち上がり、彼女の頭を撫でる代わりに、机の上に置かれた文庫本の表紙を指先で優しく叩いた。
藤村先生「また、面白い本があったら教えてくれ。君の感想を聞くのを楽しみにしている。」
彼が去った後、教室の騒がしさは元に戻ったが、陽葵の世界は一変していた。
窓から差し込む鈍い光が、さっきまでよりもずっと鮮やかに見える。胸の奥で、まだ名前も知らない熱い感情が、じわりと、けれど深く根を張っていくのを感じた。
それは、14歳の少女が初めて抱いた、誰にも言えない秘密の恋だった。
卒業文集の隅に、消え入りそうな筆跡で「先生の授業がとても好きでした」と記す、その10年後の再会なんて、この時の彼女は知る由もなかった。




