↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/5

帰るべき場所

三年ぶりに見る侯爵領は、記憶の中よりも美しく見えた。

馬車の窓から広がる景色を見つめながら、ルシアは静かに息を吐く。

鉱山へ続く街道。

見慣れた森。

遠くに見える領都の城壁。

どれも幼い頃から見てきた景色だ。

「帰ってきたのですね」

向かいに座るクラリスが嬉しそうに言った。

「ええ」

自然と笑みが浮かぶ。

三年間の留学。

長かったようで短かった。

学んだことは数え切れない。

だが今はまず、この土地へ帰ってきたことが嬉しかった。


◇◇◇


侯爵邸へ到着すると、大勢の使用人たちが出迎えてくれた。

「お帰りなさいませ、お嬢様!」

一斉に頭が下がる。

その先に見慣れた姿があった。

父だった。

エヴァンズ侯爵はいつも通りの表情で立っている。

三年ぶりの再会のはずだった。

だが不思議と久しぶりという気はしない。

手紙のやり取りを続けていたからだろう。

まるで昨日も文を書き送ったばかりのようだった。

「ただいま戻りました」

ルシアは一礼する。

父は静かに頷いた。

「お帰り」

短い言葉だった。

だが、それだけで十分だった。

無事に帰ってきたことを喜んでいるのが分かる。

「留学はどうだった」

「とても有意義でした」

自然と答える。

父は口元をわずかに緩めた。

「そうか」

それ以上は言わない。

だが満足していることは伝わってきた。

ルシアは少しだけ笑う。

やはり父は変わらない。


◇◇◇


その日の夕食は久しぶりに父と向かい合って取ることになった。

留学中の出来事を聞かれる。

王立高等学術院のこと。

港湾課題のこと。

商会実習のこと。

気付けば話は尽きなかった。

父は時折質問を挟みながら静かに耳を傾ける。

「なるほど」

「面白いな」

短い言葉ばかりだったが、真剣に聞いていることが伝わってきた。

やがて食後の紅茶が運ばれてくる。

父は一口飲むと、さらりと言った。

「明日から執務室へ来い」

ルシアは吹き出しそうになった。

帰ってきた実感が一瞬で湧く。

「休暇はないのですか?」

「三年与えただろう」

真顔で返された。

思わず笑ってしまう。

「確かに」

父らしい答えだった。

「分かりました」

ルシアは頷いた。

「明日からよろしくお願いいたします」

その言葉に父は満足そうに頷く。

ここから先は学んだことを使う番だ。


◇◇◇


翌朝。

ルシアは父に指定された時間に執務室を訪れた。

扉を開く。

そして思わず足を止めた。

「……多くありませんか?」

机の上に積み上がった書類の山を見て、率直な感想が口をついて出た。

いや、机の上だけではない。

壁際の棚にも。

来客用の机にも。

整然と整理されてはいるが、書類が並んでいる。

父はいつもの席に座ったまま顔を上げた。

「少ない方だ」

「これでですか?」

「今日は読むだけでいい」

そう言って父は机の端に積まれた束を示した。

「まず現状を知れ」

ルシアは書類の山を見つめた。

学院の課題を思い出す。

資料が配られ。

問題が整理され。

必要な情報は最初から揃っていた。

だが目の前の書類は違う。

どこから手を付ければいいのか分からない。

「何から読めばよろしいのでしょう」

「好きなものから読め」

父は平然と言った。

「え?」

「現場もそうだ」

父はペンを走らせながら続ける。

「誰も順番など教えてくれん」

ルシアは少し考えた。

そして一番上に置かれていた書類を手に取る。

鉱山収支報告。

最も馴染みのある分野だった。


◇◇◇


午前中はあっという間に過ぎた。

収支報告そのものは理解できる。

だが読み進めるうちに気付いた。

数字だけでは判断できない。

採掘量は増えている。

しかし利益の伸びは小さい。

理由を探す。

輸送費だった。

詳細を確認する。

今度は道路補修の遅れという記述が見つかる。

道路の書類を開く。

すると橋の補修計画が遅れていた。

理由は人員不足。

さらに人員不足の原因を調べる。

農地への労働力集中。

作物の収穫時期。

今度は農業関連の資料が必要になる。

「……」

ルシアは額を押さえた。

一つ調べるたびに別の問題が出てくる。

終わりが見えない。


◇◇◇


昼食後も作業は続いた。

気付けば机の上には開いた書類が何冊も積まれている。

その時だった。

「どうだ」

父が声を掛けた。

ルシアは顔を上げる。

「分からなくなってきました」

正直に答えた。

父は笑わない。

代わりに椅子へ深く腰掛けた。

「何がだ」

「全てです」

ルシアはため息を吐いた。

「鉱山の問題を調べていたはずなのに、道路が出てきます」

「そうだな」

「道路を見れば橋が出てきます」

「そうだな」

「橋を見れば人手不足が出てきます」

父は静かに頷いた。

「では人手不足の原因は?」

「農地です」

ルシアは即答した。

「農繁期で人が取られています」

「その通りだ」

父は椅子にもたれた。

「領地経営とはそういうものだ」

「そういうもの?」

「全てが繋がっている」

父は机の上の書類を軽く叩いた。

「鉱山だけでは領地は回らん」

「……」

「農業だけでも回らん」

「はい」

「道路もそうだ」

ルシアは黙った。

分かっていたつもりだった。

だが本当には分かっていなかった。

学院では広い視点を持つことを学んだ。

しかし現実はその何倍も複雑だった。


◇◇◇


夕方。

窓の外が赤く染まり始めた頃。

ようやく最後の書類を閉じる。

疲れた。

正直に言えば、学院の試験より疲れたかもしれない。

父がこちらを見る。

「感想は」

ルシアは少し考えた。

そして答える。

「課題の方がずっと楽でした」

父は珍しく声を上げて笑った。

「そうだろうな」

ルシアも苦笑する。

王立高等学術院での日々は厳しかった。

だが問題には必ず答えが用意されていた。

現実は違う。

答えがない。

そもそも問題が何なのかすら分からないこともある。

それでも。

不思議と嫌ではなかった。

「お父様」

「何だ」

「面白いです」

一瞬だけ父が目を見開く。

だが次の瞬間には満足そうに頷いていた。

「それなら大丈夫だ」

ルシアは首を傾げる。

「何がですか?」

「侯爵の仕事は、一生終わらん」

父は山のような書類へ視線を向けた。

「面白いと思えなければ続かんからな」

ルシアは小さく笑う。

確かにその通りだ。

学ぶことはまだ山ほどある。

知らないことも山ほどある。

だが、それが楽しい。

侯爵見習いとしての初日。

ルシアはようやく理解した。

留学は終わった。

しかし学ぶ日々は、まだ始まったばかりなのだ。


◇◇◇


それからの日々は忙しかった。

父は頻繁にルシアへ課題を出す。

「橋を修繕するべきか」

「鉱山設備を更新するべきか」

「税率を上げるべきか」

「予備資金を増やすべきか」

どれも簡単には答えられない。

資料を読み込み、数字を追い、何度も考える。

ようやく答えを出しても父は別の視点を示した。

最初は悔しかった。

だが次第に分かってくる。

どの問題にも絶対の正解はないのだ。

ある日の夕方。

ルシアは父へ尋ねた。

「お父様」

「何だ」

「正解はあるのですか?」

父はしばらく考えた後、小さく首を横に振った。

「ない」

「ないのですか」

「ああ」

父は机の上の資料へ視線を落とした。

「だから考える」

静かな声だった。

「持っている情報を集める」

「見落としを探す」

「そして、その時点で最善だと思う答えを選ぶ」

それが領主の仕事だった。


◇◇◇


季節が移り変わる頃。

父から一つの仕事を任された。

輸送契約の更新交渉だった。

領地と商会の間で意見が対立し、話し合いは難航していた。

ルシアは双方の話を聞いた。

資料を読み込み、現場を確認する。

すると問題は輸送費ではなく、積み込み作業の非効率さにあると分かった。

領地側も商会側も、本当の原因を見落としていたのだ。

ルシアは改善案をまとめる。

何度も修正しながら双方を説得した。

そして数日後。

契約は無事にまとまった。


◇◇◇


執務室へ呼ばれたのは、その翌日のことだった。

父は完成した契約書を机に置く。

「よくやった」

短い言葉だった。

だがルシアには十分だった。

父は引き出しから一冊の書類を取り出し、机の上へ置く。

来年度の領地運営計画。

これまで見せてもらえなかった資料だった。

「これからはお前も参加しろ」

ルシアは目を瞬く。

「私も、ですか?」

「ああ」

父は静かに頷いた。

「そろそろいいだろう」

そして珍しく笑う。

「合格だ」

「合格?」

「後継者としての第一歩は合格だ」

一瞬だけ言葉を失った。

認められたいと思っていた。

追い付きたいと思っていた。

まだ遠い。

だが確かに前へ進めている。

「ありがとうございます」

父は小さく頷いた。

侯爵への道を、確かに歩き始めているのだと感じていた。


◇◇◇


輸送契約の一件が落ち着いた頃だった。

ルシアは執務室で書類へ目を通していた。

父から新たに任された資料である。

読めば読むほど課題は尽きない。

侯爵の仕事とは本当に終わりがないものらしい。

そんなことを考えていると、扉が叩かれた。

「失礼いたします」

執事のセバスチャンだった。

「どうしました?」

「面会希望者がおります」

ルシアは資料から顔を上げる。

領民だろうか。

それとも商会関係者だろうか。

「どなたですか?」

セバスチャンは一瞬だけ言葉を選んだ。

「アレン・フォード様です」

その名前に、ルシアの手が止まる。

ほんの一瞬だけ。

だがそれだけだった。

驚きはした。

しかし胸がざわつくこともない。

かつて抱いていた感情はもうどこにもなかった。

「そうですか」

静かに答える。

セバスチャンが続けた。

「いかがいたしましょう」

ルシアは少しだけ考えた。

「お断りしてください」

セバスチャンが目を瞬く。

「よろしいのですか?」

「ええ」

ルシアは頷いた。

「今さらお話しすることはありません」

「ですが」

 セバスチャンが遠慮がちに口を開く。

「一目だけでも、と仰っております」

かつてなら。

その言葉だけで心が揺れたかもしれない。

返事を待ち続けた日もあった。

姿を見るだけで嬉しかった頃もあった。

だが今は違う。

驚くほど静かだった。

「お断りしてください」

もう一度、同じ言葉を告げる。

「どのようなご用件かは分かりません」

「ですが、もう私が関わる話ではありません」

セバスチャンは深く頭を下げた。

「かしこまりました」

そう言って退室していく。

扉が閉まる。

静寂が戻った。

ルシアはしばらく机を見つめていた。

胸は少しも痛まない。

怒りもない。

未練もない。


◇◇◇


その夜。

父が執務室でふと尋ねた。

「会わなくて良かったのか」

どうやら報告は受けているらしい。

ルシアは頷いた。

「はい」

「恨んではいないのだな」

少し考える。

そして静かに答えた。

「恨んではおりません」

父は黙って続きを待った。

「ただ」

ルシアは窓の外へ目を向ける。

「もう終わった話です」

父は小さく頷いた。

それ以上は何も言わなかった。

それだけで十分だった。


◇◇◇


アレンが侯爵邸を訪れてから数週間後。

ある日の夕食後。

父が何気なく言った。

「明日は予定を空けておけ」

ルシアは顔を上げた。

「何かあるのですか?」

「来客だ」

それだけだった。

侯爵ともなれば来客は珍しくない。

ルシアも特に気にせず頷いた。

「分かりました」


◇◇◇


翌日。

侯爵邸は朝から慌ただしかった。

使用人たちが忙しそうに動き回っている。

どうやらそれなりに重要な客らしい。

ルシアは応接室へ向かいながら首を傾げた。

「どなたがお見えになるのですか?」

隣を歩くセバスチャンへ尋ねる。

「もう間もなく到着されます」

答えになっていない。

父を見るが、こちらも教える気はないらしかった。

少し不満だった。


◇◇◇


やがて馬車の到着が告げられる。

窓の外を見ると、公爵家の紋章が刻まれた馬車が正門をくぐっていた。

ルシアは思わず目を瞬く。

公爵家。

それも見覚えのある紋章だった。

アシュトン公爵家。

「まさか……」

そんなはずはない。

そう思った瞬間。

応接室の扉が開いた。

「アシュトン公爵家ご嫡男、カイル・アシュトン様がお見えです」

ルシアは固まった。

そして入室してきた青年を見て思わず声を上げる。

「カイル!?」

金髪の青年が足を止める。

そして。

口元をわずかに緩めた。

「久しぶりだな」

学術院で聞き慣れた声だった。


◇◇◇


一通りの挨拶を終えた後。

父とカイルの話は自然と商談へ移る。

鉱石。輸送。貿易。

どれも重要な話だった。

ルシアも途中から会話へ加わる。

気付けば学術院の討論のようになっていた。

「その計画は少し楽観的ではありませんか?」

「いや、需要予測を考えれば十分可能だ」

「ですが供給側の余裕がありません」

「だから事前投資を行う」

いつの間にか議論になっている。

父は黙って二人を見ていた。

やがて小さく息を吐く。

「なるほど」

「?」

「手紙で名前が出ていた理由が分かった」

ルシアとカイルは顔を見合わせた。

そして同時に笑った。


◇◇◇


話し合いは夕方まで続いた。

帰りの時間が近付く。

カイルが席を立った。

「本日はありがとうございました」

父へ一礼する。

そしてルシアへ視線を向けた。

「後継者修行は順調そうだな」

「まだまだよ」

「そうか?」

少し笑う。

学術院の頃と変わらない表情だった。

だが立場は違う。

自分たちはもう学生ではない。

それぞれの家を背負う立場になっている。

それでも、不思議と距離は感じなかった。


◇◇◇


玄関ホール。

見送りのために外へ出る。

馬車へ乗り込む直前。

カイルが振り返った。

「また来る」

ルシアは首を傾げる。

「仕事で?」

「ああ」

即答だった。

だが。

カイルは口元を緩めた。

「だが次は、お前に会うのが目的だな」

ルシアは言葉に詰まる。

だがカイルは気にした様子もない。

「じゃあな」

そう言って馬車へ乗り込んでしまう。

馬車が動き出す。

残されたルシアはしばらく正門を見つめていた。

隣で見送っていた父が小さく笑った。

「良い友人ができたな」

不意にそう言われる。

ルシアは少し考えた。

友人。

そうなのかもしれない。

学術院で出会い、

何度も議論を交わし、

今もなお共に未来を語れる相手。

そんな存在は決して多くなかった。

「ええ」

自然と頷く。

遠ざかっていく馬車を見つめながら、

ルシアは小さく微笑んだ。

本編はこれで完了です。アレン視点も投稿予定です。どうぞよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。