帰るべき場所
三年ぶりに見る侯爵領は、記憶の中よりも美しく見えた。
馬車の窓から広がる景色を見つめながら、ルシアは静かに息を吐く。
鉱山へ続く街道。
見慣れた森。
遠くに見える領都の城壁。
どれも幼い頃から見てきた景色だ。
「帰ってきたのですね」
向かいに座るクラリスが嬉しそうに言った。
「ええ」
自然と笑みが浮かぶ。
三年間の留学。
長かったようで短かった。
学んだことは数え切れない。
だが今はまず、この土地へ帰ってきたことが嬉しかった。
◇◇◇
侯爵邸へ到着すると、大勢の使用人たちが出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、お嬢様!」
一斉に頭が下がる。
その先に見慣れた姿があった。
父だった。
エヴァンズ侯爵はいつも通りの表情で立っている。
三年ぶりの再会のはずだった。
だが不思議と久しぶりという気はしない。
手紙のやり取りを続けていたからだろう。
まるで昨日も文を書き送ったばかりのようだった。
「ただいま戻りました」
ルシアは一礼する。
父は静かに頷いた。
「お帰り」
短い言葉だった。
だが、それだけで十分だった。
無事に帰ってきたことを喜んでいるのが分かる。
「留学はどうだった」
「とても有意義でした」
自然と答える。
父は口元をわずかに緩めた。
「そうか」
それ以上は言わない。
だが満足していることは伝わってきた。
ルシアは少しだけ笑う。
やはり父は変わらない。
◇◇◇
その日の夕食は久しぶりに父と向かい合って取ることになった。
留学中の出来事を聞かれる。
王立高等学術院のこと。
港湾課題のこと。
商会実習のこと。
気付けば話は尽きなかった。
父は時折質問を挟みながら静かに耳を傾ける。
「なるほど」
「面白いな」
短い言葉ばかりだったが、真剣に聞いていることが伝わってきた。
やがて食後の紅茶が運ばれてくる。
父は一口飲むと、さらりと言った。
「明日から執務室へ来い」
ルシアは吹き出しそうになった。
帰ってきた実感が一瞬で湧く。
「休暇はないのですか?」
「三年与えただろう」
真顔で返された。
思わず笑ってしまう。
「確かに」
父らしい答えだった。
「分かりました」
ルシアは頷いた。
「明日からよろしくお願いいたします」
その言葉に父は満足そうに頷く。
ここから先は学んだことを使う番だ。
◇◇◇
翌朝。
ルシアは父に指定された時間に執務室を訪れた。
扉を開く。
そして思わず足を止めた。
「……多くありませんか?」
机の上に積み上がった書類の山を見て、率直な感想が口をついて出た。
いや、机の上だけではない。
壁際の棚にも。
来客用の机にも。
整然と整理されてはいるが、書類が並んでいる。
父はいつもの席に座ったまま顔を上げた。
「少ない方だ」
「これでですか?」
「今日は読むだけでいい」
そう言って父は机の端に積まれた束を示した。
「まず現状を知れ」
ルシアは書類の山を見つめた。
学院の課題を思い出す。
資料が配られ。
問題が整理され。
必要な情報は最初から揃っていた。
だが目の前の書類は違う。
どこから手を付ければいいのか分からない。
「何から読めばよろしいのでしょう」
「好きなものから読め」
父は平然と言った。
「え?」
「現場もそうだ」
父はペンを走らせながら続ける。
「誰も順番など教えてくれん」
ルシアは少し考えた。
そして一番上に置かれていた書類を手に取る。
鉱山収支報告。
最も馴染みのある分野だった。
◇◇◇
午前中はあっという間に過ぎた。
収支報告そのものは理解できる。
だが読み進めるうちに気付いた。
数字だけでは判断できない。
採掘量は増えている。
しかし利益の伸びは小さい。
理由を探す。
輸送費だった。
詳細を確認する。
今度は道路補修の遅れという記述が見つかる。
道路の書類を開く。
すると橋の補修計画が遅れていた。
理由は人員不足。
さらに人員不足の原因を調べる。
農地への労働力集中。
作物の収穫時期。
今度は農業関連の資料が必要になる。
「……」
ルシアは額を押さえた。
一つ調べるたびに別の問題が出てくる。
終わりが見えない。
◇◇◇
昼食後も作業は続いた。
気付けば机の上には開いた書類が何冊も積まれている。
その時だった。
「どうだ」
父が声を掛けた。
ルシアは顔を上げる。
「分からなくなってきました」
正直に答えた。
父は笑わない。
代わりに椅子へ深く腰掛けた。
「何がだ」
「全てです」
ルシアはため息を吐いた。
「鉱山の問題を調べていたはずなのに、道路が出てきます」
「そうだな」
「道路を見れば橋が出てきます」
「そうだな」
「橋を見れば人手不足が出てきます」
父は静かに頷いた。
「では人手不足の原因は?」
「農地です」
ルシアは即答した。
「農繁期で人が取られています」
「その通りだ」
父は椅子にもたれた。
「領地経営とはそういうものだ」
「そういうもの?」
「全てが繋がっている」
父は机の上の書類を軽く叩いた。
「鉱山だけでは領地は回らん」
「……」
「農業だけでも回らん」
「はい」
「道路もそうだ」
ルシアは黙った。
分かっていたつもりだった。
だが本当には分かっていなかった。
学院では広い視点を持つことを学んだ。
しかし現実はその何倍も複雑だった。
◇◇◇
夕方。
窓の外が赤く染まり始めた頃。
ようやく最後の書類を閉じる。
疲れた。
正直に言えば、学院の試験より疲れたかもしれない。
父がこちらを見る。
「感想は」
ルシアは少し考えた。
そして答える。
「課題の方がずっと楽でした」
父は珍しく声を上げて笑った。
「そうだろうな」
ルシアも苦笑する。
王立高等学術院での日々は厳しかった。
だが問題には必ず答えが用意されていた。
現実は違う。
答えがない。
そもそも問題が何なのかすら分からないこともある。
それでも。
不思議と嫌ではなかった。
「お父様」
「何だ」
「面白いです」
一瞬だけ父が目を見開く。
だが次の瞬間には満足そうに頷いていた。
「それなら大丈夫だ」
ルシアは首を傾げる。
「何がですか?」
「侯爵の仕事は、一生終わらん」
父は山のような書類へ視線を向けた。
「面白いと思えなければ続かんからな」
ルシアは小さく笑う。
確かにその通りだ。
学ぶことはまだ山ほどある。
知らないことも山ほどある。
だが、それが楽しい。
侯爵見習いとしての初日。
ルシアはようやく理解した。
留学は終わった。
しかし学ぶ日々は、まだ始まったばかりなのだ。
◇◇◇
それからの日々は忙しかった。
父は頻繁にルシアへ課題を出す。
「橋を修繕するべきか」
「鉱山設備を更新するべきか」
「税率を上げるべきか」
「予備資金を増やすべきか」
どれも簡単には答えられない。
資料を読み込み、数字を追い、何度も考える。
ようやく答えを出しても父は別の視点を示した。
最初は悔しかった。
だが次第に分かってくる。
どの問題にも絶対の正解はないのだ。
ある日の夕方。
ルシアは父へ尋ねた。
「お父様」
「何だ」
「正解はあるのですか?」
父はしばらく考えた後、小さく首を横に振った。
「ない」
「ないのですか」
「ああ」
父は机の上の資料へ視線を落とした。
「だから考える」
静かな声だった。
「持っている情報を集める」
「見落としを探す」
「そして、その時点で最善だと思う答えを選ぶ」
それが領主の仕事だった。
◇◇◇
季節が移り変わる頃。
父から一つの仕事を任された。
輸送契約の更新交渉だった。
領地と商会の間で意見が対立し、話し合いは難航していた。
ルシアは双方の話を聞いた。
資料を読み込み、現場を確認する。
すると問題は輸送費ではなく、積み込み作業の非効率さにあると分かった。
領地側も商会側も、本当の原因を見落としていたのだ。
ルシアは改善案をまとめる。
何度も修正しながら双方を説得した。
そして数日後。
契約は無事にまとまった。
◇◇◇
執務室へ呼ばれたのは、その翌日のことだった。
父は完成した契約書を机に置く。
「よくやった」
短い言葉だった。
だがルシアには十分だった。
父は引き出しから一冊の書類を取り出し、机の上へ置く。
来年度の領地運営計画。
これまで見せてもらえなかった資料だった。
「これからはお前も参加しろ」
ルシアは目を瞬く。
「私も、ですか?」
「ああ」
父は静かに頷いた。
「そろそろいいだろう」
そして珍しく笑う。
「合格だ」
「合格?」
「後継者としての第一歩は合格だ」
一瞬だけ言葉を失った。
認められたいと思っていた。
追い付きたいと思っていた。
まだ遠い。
だが確かに前へ進めている。
「ありがとうございます」
父は小さく頷いた。
侯爵への道を、確かに歩き始めているのだと感じていた。
◇◇◇
輸送契約の一件が落ち着いた頃だった。
ルシアは執務室で書類へ目を通していた。
父から新たに任された資料である。
読めば読むほど課題は尽きない。
侯爵の仕事とは本当に終わりがないものらしい。
そんなことを考えていると、扉が叩かれた。
「失礼いたします」
執事のセバスチャンだった。
「どうしました?」
「面会希望者がおります」
ルシアは資料から顔を上げる。
領民だろうか。
それとも商会関係者だろうか。
「どなたですか?」
セバスチャンは一瞬だけ言葉を選んだ。
「アレン・フォード様です」
その名前に、ルシアの手が止まる。
ほんの一瞬だけ。
だがそれだけだった。
驚きはした。
しかし胸がざわつくこともない。
かつて抱いていた感情はもうどこにもなかった。
「そうですか」
静かに答える。
セバスチャンが続けた。
「いかがいたしましょう」
ルシアは少しだけ考えた。
「お断りしてください」
セバスチャンが目を瞬く。
「よろしいのですか?」
「ええ」
ルシアは頷いた。
「今さらお話しすることはありません」
「ですが」
セバスチャンが遠慮がちに口を開く。
「一目だけでも、と仰っております」
かつてなら。
その言葉だけで心が揺れたかもしれない。
返事を待ち続けた日もあった。
姿を見るだけで嬉しかった頃もあった。
だが今は違う。
驚くほど静かだった。
「お断りしてください」
もう一度、同じ言葉を告げる。
「どのようなご用件かは分かりません」
「ですが、もう私が関わる話ではありません」
セバスチャンは深く頭を下げた。
「かしこまりました」
そう言って退室していく。
扉が閉まる。
静寂が戻った。
ルシアはしばらく机を見つめていた。
胸は少しも痛まない。
怒りもない。
未練もない。
◇◇◇
その夜。
父が執務室でふと尋ねた。
「会わなくて良かったのか」
どうやら報告は受けているらしい。
ルシアは頷いた。
「はい」
「恨んではいないのだな」
少し考える。
そして静かに答えた。
「恨んではおりません」
父は黙って続きを待った。
「ただ」
ルシアは窓の外へ目を向ける。
「もう終わった話です」
父は小さく頷いた。
それ以上は何も言わなかった。
それだけで十分だった。
◇◇◇
アレンが侯爵邸を訪れてから数週間後。
ある日の夕食後。
父が何気なく言った。
「明日は予定を空けておけ」
ルシアは顔を上げた。
「何かあるのですか?」
「来客だ」
それだけだった。
侯爵ともなれば来客は珍しくない。
ルシアも特に気にせず頷いた。
「分かりました」
◇◇◇
翌日。
侯爵邸は朝から慌ただしかった。
使用人たちが忙しそうに動き回っている。
どうやらそれなりに重要な客らしい。
ルシアは応接室へ向かいながら首を傾げた。
「どなたがお見えになるのですか?」
隣を歩くセバスチャンへ尋ねる。
「もう間もなく到着されます」
答えになっていない。
父を見るが、こちらも教える気はないらしかった。
少し不満だった。
◇◇◇
やがて馬車の到着が告げられる。
窓の外を見ると、公爵家の紋章が刻まれた馬車が正門をくぐっていた。
ルシアは思わず目を瞬く。
公爵家。
それも見覚えのある紋章だった。
アシュトン公爵家。
「まさか……」
そんなはずはない。
そう思った瞬間。
応接室の扉が開いた。
「アシュトン公爵家ご嫡男、カイル・アシュトン様がお見えです」
ルシアは固まった。
そして入室してきた青年を見て思わず声を上げる。
「カイル!?」
金髪の青年が足を止める。
そして。
口元をわずかに緩めた。
「久しぶりだな」
学術院で聞き慣れた声だった。
◇◇◇
一通りの挨拶を終えた後。
父とカイルの話は自然と商談へ移る。
鉱石。輸送。貿易。
どれも重要な話だった。
ルシアも途中から会話へ加わる。
気付けば学術院の討論のようになっていた。
「その計画は少し楽観的ではありませんか?」
「いや、需要予測を考えれば十分可能だ」
「ですが供給側の余裕がありません」
「だから事前投資を行う」
いつの間にか議論になっている。
父は黙って二人を見ていた。
やがて小さく息を吐く。
「なるほど」
「?」
「手紙で名前が出ていた理由が分かった」
ルシアとカイルは顔を見合わせた。
そして同時に笑った。
◇◇◇
話し合いは夕方まで続いた。
帰りの時間が近付く。
カイルが席を立った。
「本日はありがとうございました」
父へ一礼する。
そしてルシアへ視線を向けた。
「後継者修行は順調そうだな」
「まだまだよ」
「そうか?」
少し笑う。
学術院の頃と変わらない表情だった。
だが立場は違う。
自分たちはもう学生ではない。
それぞれの家を背負う立場になっている。
それでも、不思議と距離は感じなかった。
◇◇◇
玄関ホール。
見送りのために外へ出る。
馬車へ乗り込む直前。
カイルが振り返った。
「また来る」
ルシアは首を傾げる。
「仕事で?」
「ああ」
即答だった。
だが。
カイルは口元を緩めた。
「だが次は、お前に会うのが目的だな」
ルシアは言葉に詰まる。
だがカイルは気にした様子もない。
「じゃあな」
そう言って馬車へ乗り込んでしまう。
馬車が動き出す。
残されたルシアはしばらく正門を見つめていた。
隣で見送っていた父が小さく笑った。
「良い友人ができたな」
不意にそう言われる。
ルシアは少し考えた。
友人。
そうなのかもしれない。
学術院で出会い、
何度も議論を交わし、
今もなお共に未来を語れる相手。
そんな存在は決して多くなかった。
「ええ」
自然と頷く。
遠ざかっていく馬車を見つめながら、
ルシアは小さく微笑んだ。
本編はこれで完了です。アレン視点も投稿予定です。どうぞよろしくお願いいたします。




