未来はもう前にある
月日は驚くほど早く過ぎていった。
王立高等学術院での日々は忙しい。
講義。課題。討論。
気付けば一日が終わっている。
だがルシアにとって苦ではなかった。
むしろ懐かしささえある。
前世でも毎日何かを学んでいた。
新しい商品。市場分析。取引先の動向。
だが、仕事に追われる毎日だった。
目の前の業務をこなすことに精一杯で、知識そのものを楽しむ余裕はなかった。
今は違う。
学んだことが領地へ繋がる。
だから面白かった。
◇◇◇
二年目に入ると、学術院の授業はさらに実践的になった。
その一つが商会実習だった。
学生たちは実際の商会で働きながら学ぶ。
帳簿を確認し、商談を見学し、ときには意見を求められることもある。
ルシアは大手貿易商会へ配属された。
ある日。
若い商人が困った顔で資料を見つめていた。
「何かあったのですか?」
ルシアが声を掛ける。
彼は苦笑した。
「大型契約を逃しまして」
机の上には提案書が広げられていた。
「価格も悪くない」
「品質も問題ない」
「供給量も十分です」
商人は肩を落とす。
「それなのに競合に取られてしまいました」
ルシアは資料へ目を落とした。
条件だけを見れば確かに悪くない。
むしろ良い部類だろう。
「契約先は何を重視していたのですか?」
商人が首を傾げる。
「何を、ですか?」
「ええ」
ルシアは頷いた。
「価格でしょうか」
商人は自信なさそうに答えた。
「ですが品質も重視される業種ですし……」
「確認したのですか?」
その瞬間、商人が黙った。
ルシアは少し考える。
前世で営業をしていた頃を思い出した。
安ければ売れるわけではない。
品質が良ければ決まるわけでもない。
相手によって重視するものは違う。
納期。安定供給。技術支援。将来性。
同じ商品でも選ばれる理由は様々だった。
「失礼ですが」
ルシアは言葉を選ぶ。
「条件を比較する前に、お相手が何を求めていたのかを確認するべきだったのではありませんか」
商人はしばらく考え込んだ。
後日。
契約を取った競合について調査した結果が分かった。
契約先が最も重視していたのは価格でも品質でもなかった。
加工技術に関する継続的な支援だった。
その分野だけは競合商会の方が実績を持っていたのである。
「なるほどな」
商会長が腕を組む。
「我々は自分たちの商品の話ばかりしていた」
そしてルシアを見る。
「お嬢さんは相手を見ていたのか」
ルシアは少し苦笑した。
「当たり前のことです」
「商売では、その当たり前が一番難しい」
◇◇◇
カイルと意見がぶつかることもあった。
「新航路への投資には反対だ」
カイルが言った。
課題で扱っている海上貿易の資料を指で叩く。
「収益化まで時間がかかり過ぎる」
「私は賛成です」
ルシアは答えた。
「十年後を考えるなら必要な投資だと思います」
「十年後だけを見ればな」
カイルは肩を竦める。
「だが港湾整備も必要だ」
「ええ」
「既存航路の維持費もかかる」
「そうですね」
「倉庫の改修計画もある」
ルシアは頷いた。
どれも事実だ。
予算は無限ではない。
「限られた資金の中で優先順位を決めなければならない」
カイルは言う。
「私は新航路より他の投資を優先するべきだと思う」
ルシアはしばらく資料を眺めた。
「反対というより」
顔を上げる。
「今やる必要はない、という考え方ですか?」
カイルが少し驚いた顔をした。
「その通りだ」
「なるほど」
ルシアは納得した。
前世でも似た話は何度も見てきた。
予算には限りがある。
良い計画であっても、今優先するべきとは限らない。
「貴方の言いたいことは分かります」
「分かるのか?」
「ええ」
ルシアは頷いた。
「投資そのものに反対しているわけではなく、優先順位の問題なのでしょう?」
カイルが小さく笑う。
「話が早いな」
「ですが」
ルシアは続けた。
「私は完全に見送るべきだとは思いません」
「理由は?」
「需要が本当に伸びるなら、準備には時間がかかるからです」
資料を指差す。
「新航路を開拓するなら港湾設備の整備も必要になります」
「そうだな」
「だから段階的に進めるべきだと思います」
「段階的?」
ルシアは頷いた。
「まず小規模な試験運用を行う」
「なるほど」
「利用実績を確認する」
「それで?」
「採算が見込めるなら拡張する」
カイルは資料へ視線を落とした。
「失敗した場合の損失も抑えられます」
ルシアは言う。
「準備を始めながら、撤退もできる形です」
しばらく沈黙が流れた。
やがてカイルが息を吐く。
「なるほど」
「どうでしょう」
「悪くない」
カイルは素直に認めた。
「お前、本当に商人みたいな考え方をするな」
ルシアは苦笑した。
「褒めているのですか?」
「ああ」
即答だった。
「かなりな」
そう言ってカイルは笑った。
ルシアもつられて笑う。
意見は違う。
だが互いの考え方は理解できる。
だから議論が面白いのだ。
◇◇◇
ルシアは定期的に父へ手紙を書いていた。
講義の内容。
港で見たこと。
商会実習で学んだこと。
気付けば毎回かなりの分量になっていた。
もはや手紙というより報告書だった。
そして父からの返事もまた長い。
『港湾整備の件、面白い視点だ』
『だが領主の立場なら住民負担も考えろ』
『利益だけでは人は動かん』
『その利益を誰が得て、誰が負担するのかを書いてみろ』
手紙を読むたびに赤を入れられた報告書を思い出す。
まるで課題の添削だった。
だが不思議と嫌ではない。
むしろ返事が来るのが楽しみになっていた。
ある日。
父からこんな質問が書かれていた。
『もしお前が領主なら、新航路と領内道路整備のどちらを優先する?』
ルシアは思わず唸る。
どちらも必要だ。
どちらも利益を生む。
だが予算は限られている。
数日悩んだ末、答案のつもりで返事を書いた。
『現時点では道路整備を優先します』
理由も添える。
輸送効率。住民生活。将来的な税収。
何度も書き直した。
数週間後。
父から返事が届く。
『概ね同意する』
その一文を見た瞬間、ルシアは思わず拳を握った。
学術院の講師に褒められるのとは違う。
次期侯爵として認められた気がした。
◇◇◇
ある日の朝。
ルシアは鏡の前に座っていた。
クラリスが後ろに立ち、慣れた手付きで髪を整えている。
窓の外からは王都の喧騒が聞こえてきた。
今日も講義に課題にと忙しい一日になりそうだ。
「お嬢様」
ふいにクラリスが口を開いた。
「何かしら」
「最近、アレン様のお名前を聞きませんね」
ルシアは思わず鏡越しにクラリスを見た。
「そういえばそうね」
ルシアは少し考えた。
留学してから数度やりとりはあったが、最後に手紙を受け取ったのはいつだっただろう。
もう思い出せないくらい前だ。
以前なら返事が来ないだけで落ち着かなかったのに。
今はそれほど気にならない。
考えることが増えたからかもしれない。
今は、講義の内容や課題の締切の方が気になる。
次に読む本の方が気になる。
港の資料の方が気になる。
「変わられましたね」
クラリスは穏やかに微笑んだ。
「そうかもしれないわ」
ルシアも小さく笑う。
「忙しいだけかもしれないけれど」
「いいえ」
クラリスは首を横に振った。
「以前のお嬢様なら、どれほど忙しくてもお話しされていました」
ルシアは少し考える。
確かにその通りかもしれない。
忘れたわけではない。
嫌いになったわけでもない。
ただ。
自分の世界が広がったのだ。
「王立高等学術院へ来て良かったわ」
自然と口にしていた。
クラリスは嬉しそうに笑った。
「私もそう思います」
髪が整う。
ルシアは立ち上がった。
今日も学ぶことがある。
それだけで足取りは軽かった。
◇◇◇
三年目の春。
父から手紙が届いた。
ルシアは夕食後、自室の机で封を切る。
見慣れた筆跡だった。
おそらくいつものように領地の報告だろう。
そう思いながら読み進める。
だが途中で手が止まった。
「これは……」
思わず呟く。
婚約解消。
その文字が目に飛び込んできた。
ルシアは最初から読み返した。
アレンとミレーヌの関係が発覚したこと。
両家で話し合いが行われたこと。
正式に婚約が解消されたこと。
全てが淡々と記されている。
父らしい文章だった。
感情より事実。
簡潔で分かりやすい。
だが内容は決して軽くない。
ルシアは静かに手紙を畳んだ。
いつかこうなると思っていたが、何も感じなかった。
◇◇◇
婚約解消の知らせを受けてから数週間後。
学術院から戻ったルシアは、机の上に置かれた一通の封筒へ目を留めた。
「お嬢様、お手紙が届いております」
クラリスが言う。
ルシアは何気なく差出人を見る。
そして目を瞬いた。
アレン・フォード。
久しく見ていない名前だった。
静かな沈黙が落ちる。
クラリスが心配そうに様子を窺っていた。
だが。
ルシアの心はやはり驚くほど静かだった。
かつてなら違っただろう。
封筒を見つめながらも、封を切りたいとも思わなかった。
「クラリス」
「はい」
ルシアは封筒を持ち上げる。
「これ、送り返してもらえる?」
クラリスが目を見開いた。
「お読みにならないのですか?」
「ええ」
ルシアは頷いた。
未開封のまま机へ戻す。
「よろしいのですか?」
「たぶん謝罪でしょうね」
婚約解消の経緯は父から聞いている。
今さら何の用件か想像はついた。
「言い訳かもしれません」
クラリスが言う。
「そうかもしれないわ」
「助けを求めている可能性もあります」
「それもあるでしょうね」
ルシアは少し考えた。
そして静かに首を横へ振る。
「でも」
言葉は驚くほど自然に出た。
「どれだとしても、もう私が関わる話ではないわ」
クラリスはしばらく黙っていた。
やがて小さく頭を下げる。
「かしこまりました」
未開封の手紙が運ばれていく。
ルシアはそれを見送った。
胸は少しも痛まない。
怒りもない。
未練もない。
ただ。
終わったのだと思った。
◇◇◇
クラリスが退室した後。
ルシアは机へ向かう。
途中まで書いていた報告書が残っていた。
明日の討論課題。
父への手紙。
読みかけの資料。
やるべきことは山ほどある。
ルシアは椅子へ腰を下ろした。そしてペンを手に取る。
未来はもう前にある。
振り返る必要はなかった。




