私は侯爵になる準備を始めました
二週間に及ぶ旅路の末、ようやく隣国王都の城壁が見えた。
ルシアは馬車の窓から顔を上げる。
白い石で築かれた巨大な城壁。
高くそびえる見張り塔。
巨大な大門の前には商人や荷馬車が列を作っていた。
遠目にも分かるほど人の往来が多い。
「見えてまいりましたよ、お嬢様」
向かいに座る侍女のクラリスが嬉しそうに言う。
「ええ」
ルシアは頷いた。
侯爵領を出発してから途中で王都へ立ち寄り、国境を越え、いくつもの宿場町を経由してきた。
想像していたより長い旅だった。
それでも疲れより期待の方が大きい。
本当に国を出たのだ。
本当にここで暮らすのだ。
「少し緊張してきました」
クラリスが胸元に手を当てる。
ルシアは思わず笑った。
「クラリスが?」
「わたくしも外国へ来るのは初めてですから」
「それは私も同じよ」
そう答えながら、ルシアは再び窓の外へ目を向けた。
これまで資料の中でしか見たことのない国。
エヴァンズ侯爵家にとって最大の鉱物輸出先。
そしてこれから三年間を過ごす場所。
胸が高鳴る。
不安がないわけではない。
だが、それ以上に知りたいことがあった。
◇◇◇
王都へ到着した翌日。
ルシアは新しい住まいの窓から街並みを見下ろしていた。
留学期間中のためにエヴァンズ侯爵家が借り受けたタウンハウスである。
侯爵家の本邸に比べれば小さい。
それでもルシアと侍女のクラリスが暮らすには十分な広さだった。
王立高等学術院へ徒歩で通える立地も申し分ない。
玄関ホールでは通いのメイドたちが忙しそうに掃除をしている。
厨房からは朝食の準備を進める料理人夫妻の声が聞こえてきた。
三年間の滞在に必要な人員は父が事前に手配してくれていたらしい。
「朝食の準備が整いました、お嬢様」
クラリスに呼ばれ、ルシアは食堂へ向かう。
朝食は焼き立てのパンと卵料理、季節の果物だった。
旅の疲れも考慮されているのだろう。
胃に優しい献立だった。
「いよいよですね」
クラリスが少し緊張した様子で言う。
「ええ」
ルシアはナプキンで口元を拭いた。
今日は編入試験の日だ。
王立高等学術院では学年だけでなく、試験成績によって所属クラスが決定される。
上位クラスほど少人数制となり、より高度な講義や討論が行われる。
編入生も例外ではない。
事前に資料で確認済みだった。
クラスによって求められる水準も内容も大きく異なる。
編入を認められる自信はあった。
だがルシアは最初から上位クラスを目指していた。
将来、国を支える人材が集まる場所で学ぶのなら、中途半端な位置に満足するつもりはない。
「緊張はなさいませんか?」
クラリスが尋ねる。
ルシアは少し考えた。
「するわ」
素直に認める。
「でも楽しみでもあるの」
知らない環境。
知らない人々。
知らない知識。
これから何が待っているのか分からない。
それが少しだけ心地良かった。
「行きましょう」
ルシアは立ち上がった。
新しい生活の第一歩を踏み出すために。
◇◇◇
王立高等学術院は想像以上に大きかった。
隣国最高峰の教育機関。
王族や大貴族の子息令嬢だけでなく、有力商会の後継者や官僚候補たちも学ぶ名門校である。
広大な敷地には講義棟や研究棟、図書館が並んでいた。
ここに将来の国を支える人材が集まっている。
そう思うだけで胸が高鳴る。
そして三日に及ぶ編入試験が始まった。
◇◇◇
編入試験は想像以上に難しかった。
だが同時に気付いたこともある。
自分の弱点だ。
討論試験では何度か言葉に詰まった。
知識不足ではない。
準備不足でもない。
問題は視点だった。
貴族。商人。官僚。
それぞれ利益を求める場所が違う。
だから結論も違う。
前世で営業職をしていた頃を思い出した。
同じ商品を扱っていても、取引先ごとに求めるものは違った。
価格を重視する企業。
品質を重視する企業。
納期を重視する企業。
目の前の相手を理解しなければ、交渉は成立しない。
それはこの世界でも同じらしい。
◇◇◇
三日後。
掲示板には編入試験の結果が張り出されていた。
ルシアは自分の名前を探す。
やがて見つけた。
最上位クラス。
ほっと息を吐く。
少なくとも学ぶ資格は得られたらしい。
◇◇◇
最上位クラス最初の授業。
ルシアは周囲を見回した。
集められているのは十数名。
人数は少ない。
だが、それだけに選び抜かれた者たちなのだろう。
緊張感のある空気が教室を満たしていた。
壇上へ立った講師が口を開く。
「本日から共同課題に取り組んでもらう」
教室がわずかにざわつく。
「課題は港湾整備計画」
ルシアの背筋が伸びた。
興味のある分野だ。
「現在の港湾設備を分析し、十年後の需要増加を見越した整備計画を提出せよ」
講師は続ける。
「四人一組で行う」
その後、グループ分けが発表された。
ルシアの名前も呼ばれる。
指定された席へ向かうと、既に三人が集まっていた。
「よろしく」
最初に声を掛けたのは赤髪の男子学生だった。
続いて眼鏡の女子学生。
そして最後に。
金髪の青年が軽く頷く。
「カイル・アシュトンだ」
その名前にルシアは少し驚いた。
アシュトン公爵家。
隣国でも有数の名門だったはずだ。
「ルシア・エヴァンズです」
「鉱石を輸出しているエヴァンズ侯爵家の」
カイルが言う。
「知っているのですか?」
「鉱石取引に関わる者なら名前くらいは知っている」
さらりと返された。
少しだけ誇らしい気持ちになる。
父たちが築いてきたもののおかげだ。
◇◇◇
課題が始まった。
まず渡されたのは港湾資料だった。
輸送量。
船の入港数。
倉庫使用率。
税収。
様々な数字が並んでいる。
グループ内で話し合いが始まった。
「輸送量は年々増えていますね」
赤髪の男子学生が資料をめくる。
「なら船を増やすべきでは?」
眼鏡の女子学生も頷いた。
「受け入れ能力を上げる必要がありますもの」
もっともな意見だった。
ルシアも否定するつもりはない。
だが。
「その前に確認したいことがあります」
三人の視線が集まる。
「何だ?」
カイルが尋ねた。
ルシアは資料の一か所を指差した。
「船の平均滞在時間です」
全員が資料へ目を落とす。
「少しずつ長くなっています」
「本当だ」
赤髪の男子が眉をひそめた。
「輸送量の増加と同じ時期ですね」
女子学生も気付く。
ルシアは頷いた。
「ですが、これだけでは原因までは分かりません」
「原因?」
カイルが聞き返した。
「荷揚げ設備かもしれません」
ルシアは指を折っていく。
「倉庫かもしれません」
「輸送路かもしれません」
「手続きの遅延かもしれません」
資料へ視線を落とした。
「どこかで滞留が発生しているのは確かだと思います」
「なるほど」
カイルが腕を組む。
「なら荷揚げ場が原因だと思うのか?」
「いいえ」
ルシアは首を横に振った。
即答だった。
「分かりません」
今度はカイルが少し驚いた顔をした。
「分からない?」
「ええ」
ルシアは真面目に答える。
「荷揚げ場かもしれませんし、違うかもしれません」
「なら、なぜそこを指摘した」
「確認する価値があると思ったからです」
それが正直な答えだった。
前世を思い出す。
会議室。
報告書。
数字だけを見て結論を出そうとする人は少なくなかった。
だが実際に現場を見れば、全く別の理由が見つかることもある。
資料は大切だ。
だが資料だけでは見えないものもある。
「現場を見なければ分からないことがあります」
ルシアは続ける。
「少なくとも私は、この数字だけで設備投資の結論は出したくありません」
しばらく沈黙が流れた。
最初に口を開いたのはカイルだった。
「面白いな」
ルシアは首を傾げる。
「そうですか?」
「ああ」
カイルは笑った。
「皆、今ある資料から答えを出そうとしている」
「それは当然では?」
「もちろんだ」
彼は頷く。
「だが、お前はまず資料が足りているかを疑った」
ルシアは少し考えた。
言われてみれば、その通りだった。
だが自分にとっては当たり前の感覚だった。
「それでは足りませんか?」
「いや」
カイルは小さく笑う。
「むしろ大事なことだ」
そう言って資料へ視線を落とす。
「俺もこの港を実際に見てみたくなった」
ルシアも思わず笑みをこぼした。
「でしたら課題提出の前に視察を提案してみましょうか」
「賛成だ」
それがカイルとの最初の共闘だった。
◇◇◇
翌週。
提出された追加調査計画は意外にも認められた。
講師は少し驚いた顔をしたものの、最終的には許可を出した。
「資料だけでは判断できない、か」
講師は報告書を眺めながら言う。
「はい」
ルシアは頷いた。
「なら見てこい」
その一言で決まった。
◇◇◇
港は王都からほど近い場所にあった。
初めて目にした時、ルシアは言葉を失った。
大きい。
ただひたすらに大きい。
港へ入る船。
荷を下ろす作業員。
倉庫へ向かう荷馬車。
全ての規模が違った。
「これは……」
思わず声が漏れる。
自国の港も見たことはある。
だが比較にならなかった。
国の豊かさそのものが目の前に広がっているようだった。
「驚いたか?」
カイルが隣で言う。
「ええ」
ルシアは素直に認めた。
「ですが」
「ですが?」
「思った以上に混雑しています」
カイルが笑った。
「そこか」
「そこです」
ルシアは真面目に答えた。
周囲へ視線を向ける。
大型船の荷下ろしを待つ荷役人。
倉庫前に並ぶ荷馬車。
荷物の確認をしている役人。
人は動いている。
だが時折流れが止まる。
まるで川の途中に石があるように。
「やはり」
小さく呟く。
「何か分かったのか?」
「荷揚げ場ですね」
今度は即答だった。
「断定できるのか」
「いいえ」
ルシアは首を横に振る。
「ですが候補の一つではあります」
資料へ目を落とす。
「少なくとも倉庫不足だけでは説明できません」
「理由は?」
「船が待たされています」
カイルも港へ目を向けた。
「確かに」
「倉庫が原因なら、もっと別の形で滞留しているはずです」
前世でもよく見た。
数字だけでは見えなかった問題が現場ではあっさり見つかることがある。
◇◇◇
視察後。
四人は港近くの店で休憩していた。
課題内容について議論しながら報告書をまとめる。
いつの間にか赤髪の男子学生も眼鏡の女子学生も熱中していた。
「現場を見ると全然違いますね」
女子学生が感心する。
「本当に」
赤髪の男子も頷いた。
「正直、資料だけで十分だと思っていた」
ルシアは少し笑う。
「私も以前はそう思っていました」
「以前?」
「領地にいた頃は資料ばかり見ていました」
ルシアは苦笑した。
「もちろん大切なことです。でも、それだけでは見えないものもあると分かりました」
「資料を読めば分かった気になっていたんです」
前世のことを思い出しそうになりながら言う。
「でも実際は違いました」
現場を見る。
人を見る。
話を聞く。
そうして初めて分かることがある。
だから学ぶことは面白い。
そう思えた。
◇◇◇
帰り道。
気付けば他の二人とは別れていた。
ルシアとカイルは並んで王都の通りを歩く。
夕暮れだった。
橙色の光が石畳を照らしている。
「今日は面白かった」
不意にカイルが言った。
ルシアは目を瞬く。
「課題が?」
「ああ」
カイルは頷く。
「よくある机上演習で終わると思っていた」
「そうでしょうか」
「だが実際には港まで行くことになった」
少し笑う。
「予想よりずっと面白かった」
ルシアも笑みを浮かべた。
「それは良かったです」
「お前のおかげだな」
「私一人ではありません」
ルシアは首を横に振る。
「皆が協力してくださったからです」
「その通りだ」
カイルもあっさり認めた。
そこで会話が途切れる。
不思議と気まずくはなかった。
同じものを見て。
同じ課題について考えて。
意見を交わす。
それが心地良い。
「明日、図書館へ行く」
しばらくしてカイルが言った。
「港湾関係の資料を探したい」
「私も行きます」
気付けば即答していた。
カイルが笑う。
「そう言うと思った」
ルシアもつられて笑った。
やがて学術院近くの分かれ道へ辿り着く。
「では、また明日」
「ああ。また明日」
カイルは軽く手を上げた。
ルシアも手を振り返す。
そしてタウンハウスへの道を歩き出した。
今日得た知識。
現場で見た光景。
課題の続きを考えながら。
気付けば足取りは軽くなっていた。
学ぶことは昔から嫌いではなかった。
だが今ほど夢中になったことはなかった。




