婚約者の隣にいるのは私ではありませんでした
ルシア・エヴァンズは、幼い頃からアレン・フォードが好きだった。
侯爵家の一人娘であるルシアと、フォード侯爵家の次男であるアレン。
エヴァンズ侯爵家とフォード侯爵家は領地を接する隣同士の家だった。
交流も深く、昔から良好な関係を築いている。
そんな中、両家に同世代の子供が生まれた。
エヴァンズ家には一人娘のルシア。
フォード家には次男のアレン。
将来、ルシアが侯爵家を継ぎ、アレンが婿として支える。
二人の婚約が決まるまでに、それほど時間は掛からなかった。
物心ついた頃には婚約者だった。
だからルシアにとって、アレンはいつも隣にいる存在だった。
ルシアにとっては幸運だった。
政略結婚の相手が、好きな人だったのだから。
幼いアレンは優しい少年だった。
乗馬の練習で落馬して泣いた時も。
教師に難しい課題を出されて落ち込んだ時も。
アレンはいつも隣にいた。
『ルシアは頑張ってる』
『きっとできる』
そう言ってくれた。
だから好きになった。
自然なことだった。
十歳になっても。
十二歳になっても。
十四歳になっても。
その気持ちは変わらなかった。
将来結婚するのだと聞けば嬉しかったし、未来を想像して頬が緩んだこともある。
侯爵家を継ぐ責任は重い。
だが、隣にアレンがいてくれるなら大丈夫だと思えた。
少なくとも、学園へ入るまでは。
◇◇◇
学園へ入学して一年目は平和だった。
ルシアは銀色の髪と紫水晶のような瞳を持っていた。
代々有力貴族の血を重ねてきた侯爵家の令嬢らしく、その容姿は人目を引く。
だが何より印象的なのは立ち居振る舞いだった。
背筋を伸ばし、静かに微笑む姿は絵画の中の貴族令嬢そのもの。
学園でも美しい令嬢として知られていたが、本人にその自覚はほとんどない。
アレンは濃紺の髪と青い瞳を持つ整った青年だった。
成績も優秀で社交的。
学園でも人気が高く、令嬢たちから憧れの視線を集めている。
だからこそ、誰も疑わなかった。
彼がルシアの婚約者になるのだと。
ルシアとアレンはクラスは違ったが、休み時間には会えた。
昼食も一緒に取った。
休日もお茶会へ出掛けた。
何も変わらなかった。
変わったのは二年目だ。
アレンのクラスに男爵令嬢のミレーヌ・バークがいた。
彼女は目立つ少女だった。蜂蜜色の髪に明るい茶色の瞳。
整った顔立ちではあるが、侯爵家や公爵家の令嬢たちのような洗練された美しさとは少し違う。
良い意味でも悪い意味でも貴族らしくない。
明るくて。気さくで。誰にでも分け隔てなく話しかける。
教師に対してすら親しげだった。人懐こい小動物のような愛らしさがあった。
そして彼女は、ルシアとは正反対の存在だった。
最初は何とも思わなかった。
新しい友人ができるのは自然なことだ。
アレンは人気者だったし、友達だって多い。
だから今さら一人増えたくらいで気にする必要はない。
そう思っていた。
だが。
ある日、昼食に誘おうとした時。
「あれ?」
アレンがいない。
探してみると中庭のベンチにいた。
隣にはミレーヌ。
二人で楽しそうに話している。
その時は胸が少しだけ痛んだだけだった。
しかし、それが何度も続く。
昼食。放課後。休日。
気が付けばアレンの隣にはいつもミレーヌがいた。
それでもルシアは黙っていた。
嫉妬深い女だと思われたくなかったからだ。
婚約者を信じたかったからだ。
だが学園中の噂は止まらない。
『最近、フォード様とバーク様は仲が良いですわね』
『恋人みたい』
『本当の婚約者より一緒にいる気がするわ』
その言葉が胸を刺す。
聞きたくないのに聞こえる。
否定したいのに否定できない。
実際にそう見えるのだから。
◇◇◇
フォード侯爵夫人がアレンを呼び出したのは、その頃だった。
「アレン」
「母上」
「ミレーヌ嬢との噂を聞きました」
アレンは軽く肩をすくめた。
「ただの友人です」
「婚約者のいる男性が言う言葉ではありません」
「何もしていません」
「していなくとも問題なのです」
侯爵夫人はため息を吐いた。
「ルシア様は傷付いています」
「気にし過ぎです」
「気にし過ぎではありません」
ぴしゃりと言われた。
「婚約者なら当然です」
「母上まで」
アレンは不満そうだった。
なぜ皆が大袈裟に騒ぐのか理解できない。
ただ仲良くしているだけなのだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
なのに会う人会う人が同じことを言う。
正直うんざりしていた。
◇◇◇
しかし噂は消えない。
むしろ広がる。
とうとうフォード侯爵まで動いた。
「アレン」
執務室に呼び出されたアレンは嫌な予感がした。
父の顔が怖い。
「エヴァンズ侯爵家から正式に苦情が来た」
「大袈裟ではありませんか」
「大袈裟?」
声が低くなる。
「お前は侯爵家次男だ」
「分かっています」
「分かっていない」
侯爵は冷たく言った。
「お前の未来はエヴァンズ家との婚約の上に成り立っている」
アレンは顔をしかめた。
「それは」
「長男が家を継ぐ。お前は継げない」
「はい」
「だからお前はエヴァンズ家へ婿入りする」
当然の未来だった。
幼い頃から決まっている。
「分かっています」
「分かっている人間は婚約者の顔を潰さない」
返す言葉がない。
だが内心では納得していなかった。
何もしていないではないか。
そんな不満が先に立つ。
侯爵は息子の顔を見てため息を吐いた。
全く伝わっていないと理解したのだ。
◇◇◇
そして限界の日が来た。
放課後。人気の少ない回廊。
「アレン様」
「何?」
「少しだけお話があります」
ルシアは緊張していた。
怖かった。
嫌われたくなかった。
だが、このままではもっと駄目になる気がした。
「最近、ミレーヌ様とずいぶん親しくされておりますよね」
アレンの表情が曇った。
「……ミレーヌのことか」
その反応だけで胸が痛む。
「はい」
「友人だよ」
「それは分かっています」
ルシアは勇気を振り絞った。
「ですが周囲の噂もございますし、婚約者として少し不安で……」
アレンは目を伏せた。
そして面倒そうに息を吐く。
「本当に窮屈だな」
ルシアは固まった。
「え……」
「どうせ結婚するんだろ」
投げやりな口調だった。
「学園にいる間くらい自由にさせてくれないか」
何かが壊れる音がした。
胸の奥で。
「私はただ……」
「重いんだよ」
アレンがルシアを見る。
その目。
その顔。
忘れられない。
面倒なものを見るような。
うんざりしたような。
蔑むような目だった。
◇◇◇
ルシアはどうやって屋敷へ帰ったのか覚えていなかった。
気付けばベッドの上だった。
涙が止まらない。
苦しい。苦しい。
悲しい。
つらい。
好きだったのだ。
本当に。
ずっと。
だからこそ苦しい。
あんな目で見られるくらいなら。
消えたい。消えてしまいたい。
そう思った瞬間。
世界が揺れた。
激しい頭痛。
視界に流れ込む知らない景色。
高層ビル。パソコン。営業会議。満員電車。コンビニ。終電。
休日の一人旅。日本。三十五歳。独身。
仕事が大好きだった女。
そして雨の日。
疲れた足取りで渡った横断歩道。
眩しいライト。クラクション。衝撃。
◇◇◇
気付けば天井を見ていた。
「……は?」
ルシアは瞬きをした。
前世の記憶。
そうとしか思えない。
そして。
冷静になった頭で改めて考える。
不安を伝えた婚約者を重いと言い、蔑むような目を向ける。
「……最低では?」
考えれば考えるほど結論は変わらなかった。
◇◇◇
翌朝。
ルシアは驚くほど落ち着いていた。
朝食を終えると、そのまま父の執務室へ向かった。
「どうした」
侯爵は娘の顔を見るなり眉をひそめた。
泣き腫らした目を見れば何かあったことは明らかだった。
「お時間をいただけますか」
「構わん」
ルシアは学園での出来事を最初から順番に説明した。
ミレーヌとの噂。
アレンとの距離。
勇気を出して伝えたこと。
返ってきた言葉。
最後に向けられた視線。
侯爵は最後まで黙って聞いていた。
話し終えた頃には表情が消えている。
娘として慣れた顔だった。
非常に怒っている時の顔である。
「婚約を解消するか」
第一声はそれだった。
だがルシアは首を横に振る。
「いいえ」
「なぜだ」
「現時点では不貞の証拠はありません」
侯爵が目を細めた。
ルシアは淡々と続ける。
「アレン様の行動は軽率です」
「軽率で済ませるつもりか?」
「いいえ」
即答だった。
「ですが感情で判断するつもりもありません」
侯爵は黙って先を促す。
「今の私はアレン様に失望しています」
自分で言って驚くほど冷静な言葉だった。
昨日までなら考えられない。
「そして同じ空間にいても良い結果にならないと思っています」
「それで?」
「距離を置きたいのです」
侯爵は腕を組んだ。
「距離を置いてどうする」
ルシアは小さく息を吸う。
昨夜から考えていた答えを口にした。
「留学したいのです」
◇◇◇
侯爵がわずかに眉を上げる。
「留学か」
「はい」
ルシアは頷いた。
「当家の主要産業は鉱物資源です」
「そうだな」
エヴァンズ侯爵領は豊かな鉱山を持つ。
鉄鉱石をはじめ、希少鉱物も産出する国内有数の産地だ。
「そして現在、当家の輸出先として最も大きいのが隣国です」
侯爵は何も言わない。
先を続けろということだ。
「私は現地を見たいのです」
「現地を?」
「はい」
ルシアは真っ直ぐ父を見た。
「どのような経路で輸送されているのか」
「……」
「どの商会が扱っているのか」
「……」
「どのような貴族が関わっているのか。輸出先を資料で知るのと、自分の目で見るのでは大きく違います」
侯爵の表情がわずかに変わる。
「商人との繋がりも作りたいですし、現地貴族との人脈も築きたいと思っています」
「お前は今、その話をしているのか」
ルシアは少し首を傾げた。
「その話だからです」
ルシアは真っ直ぐ父を見た。
「私は侯爵になります」
「……」
「アレン様の件で、自分の視野がどれほど狭かったのか分かりました」
「ほう」
「でしたら領地の外も知るべきです」
「アレンの件ではなく?」
「もちろんアレン様の件もあります」
そう言ってから少し考える。
「ですが、それだけでしたら数か月もすれば戻ってくるでしょう」
侯爵は黙った。
「侯爵を継ぐのであれば、いずれ必要になることです」
ルシアは続ける。
「ならば今でも良いのではないでしょうか」
「それで留学か」
「はい」
「隣国へ?」
「最大の輸出先ですから」
「将来のために投資したいのです」
◇◇◇
侯爵はしばらく黙り込んだ。
長い沈黙。
やがて深く息を吐く。
「本来なら私から提案するつもりだった」
「お父様が?」
「ああ」
侯爵は頷いた。
「卒業後にな」
ルシアは少し驚いた。
「次期侯爵なら一度は見ておくべきだと思っていた」
小さな笑みが浮かぶ。
親子は似るらしい。
「少し時期が早まっただけだな」
「許可していただけますか」
「構わん」
即答だった。
ルシアの肩から力が抜ける。
「ありがとうございます」
「ただし条件がある」
「何でしょう」
侯爵の目が冷たくなった。
「フォード家への対応はこちらに任せろ」
「はい」
「そしてもし不貞が事実だった場合は」
ルシアは頷く。
言いたいことは分かっていた。
「契約どおりですね」
「その通りだ」
侯爵の口元が僅かに歪む。
「慰謝料も含めてな」
「お願いします」
貴族の婚約は約束ではない。
契約だ。
責任が伴う。
だからこそ。
ルシアは静かに立ち上がる。
「お父様」
「何だ」
「私は大丈夫です」
侯爵は少しだけ目を見開いた。
昨夜泣きはらした娘とは思えないほど落ち着いている。
「そうか」
「はい」
ルシアは微笑む。
「やることが見つかりましたので」
失恋した。
確かに傷付いた。
だが立ち止まる理由にはならない。
次期侯爵として学ぶことは山ほどある。
そのための第一歩が、これから始まるのだから。
◇◇◇
アレンが留学を知ったのは数日後だった。
父に呼ばれた執務室。
「エヴァンズ嬢が留学する」
「留学?」
「ああ」
侯爵は息子を見た。
「三年間だ」
アレンは驚く。
だが。
次の瞬間。
胸に浮かんだ感情は寂しさではなかった。
安堵だった。
ほっとした。
本当に。
心の底から。
最近のルシアに会うのが億劫だった。
ミレーヌといる方が楽しい。
どうせルシアとの婚約がなくなるわけではない。
三年も経てば元に戻るだろう。
そう思っていた。
自分から離れていくことなどないと。
帰ってきた頃には、また以前と同じ関係に戻れるのだと。
だから。
しばらくルシアに会わなくて済む。
「そうですか」
侯爵の眉間に皺が寄る。
「それだけか」
「侯爵家の跡取りですし」
「……そうか」
アレンは気付かなかった。
父が呆れていることに。
母が失望していることに。
そして何より。
ルシアがもう振り返ろうとしていないことに。
執務室を出たアレンは窓の外を見た。
青空が広がっていた。
胸が軽い。
解放されたような気分だった。
しばらく自由だ。
その笑みが、後に自分自身をどれほど苦しめることになるのか。
この時のアレンは、まだ知らなかった。




