第二章第三十八話『出雲要』
「……俺は、誰なんだ」
深い、深い闇の底。そこには光もなく、音もなく、ただ絶対的な虚無だけが広がっていた。
己の輪郭さえ定かではない暗黒の中で、常世――いや、真名を失ったその魂は、ただ呆然と漂っていた。
かつて彼を縛り付けていた肉体の痛みも、失われていった五感の記憶も、すべてがこの闇に溶けていく。
フェリスやアルスたちの賑やかな喧騒、アルデバランの豪快な笑い声、そして、何よりも眩しかったあの銀髪の少年の姿。それらすべてが、まるで遠い前世の幻灯機のように、おぼろげに浮かんでは消えていく。
(俺は、あの子を……ユダ君を、育てていたはずだ……)
けれど、その結末がどうなったのかが思い出せない。
自分が最後を迎えたあの瞬間、世界のために、少年のために、己の命をどのように燃やし尽くしたのか。その記憶の断片すら、魔剣『常世』がもたらす完全なる忘却の呪いによって、じわじわと黒く塗りつぶされていく。
世界から再び拒絶され、誰の記憶にも残らず、己自身すらも自分を忘れていく。
これこそが、あの魔剣が彼に約束した「虚無」という名の終着駅だった。
──お前は誰だ?
漆黒の魔剣による問いかけが行われた。
──俺は◼◼◼。出雲の◼◼家出身にして、◼◼◼◼の兄で、刀剣流を極めた剣士。そして魔剣に呪われた臆病者だ
もう自意識は完全に消えかけていた。いずれすべてが黒に染まってしまうのだろう。
恐らく絶望に染まる中、闇の向こうから一つの叫びが聞こえたような気がした。
「まだ終われない...」
それが何なのか分からない。だが走る出す理由になっていた。
──お前は誰だ?
再度。魔剣による問いかけ。
──俺は◼◼◼。出雲の◼◼家出身にして、出雲桜花の兄で、刀剣流を極めた剣士。そして魔剣に呪われた臆病者だ。
常世の意識が強くなったことで、自意識が黒く染まったはずの白を取り戻していった。
終われない。その一心で◼◼◼は走る。どこに向かうのか、ちゃんと思い出せた。勇者が、ユダがいる現世だ。
残したままで終われるわけない。
──お前は誰だ?
再再度。魔剣による問いかけ。
──俺は◼◼◼。出雲の出雲家出身にして、出雲桜花の兄で、刀剣流を極めた剣士。そして魔剣に呪われた臆病者だ。
だが悲しいかな。常世にはもう現世との繋がりがない。
「出雲の……どこの家だった? 妹の名前は……桜花。だが、俺は、俺の名前は――◼◼◼。いや、違う。◼、◼◼……。」
己を縛る最後の楔が、指の間から砂のように零れ落ちていく。
名前が分からないのだ。◼◼◼を現世へと留める楔というべき、真名が。
走る足が緩くなってしまう。また自意識が黒く──
その時だった。
絶対の闇を切り裂いて、あの少年の声が響いた
『──出雲要!!』
黒く染まらなかった。
空からその名前が降ってきた。いや違う。呼んでくれたのだ。ユダが。
「──ありがとう。俺を覚えてくれて」
世界が◼◼◼を忘れたのに、銀髪の少年だけは覚えてくれていたのだ。
これ以上に嬉しいことはあるだろうか?
否、ない。
もう魔剣に染まらない。だってユダがその名前を呼んでくれたのだから。
──お前は誰だ?
最後の魔剣の問。
◼◼◼は大きく息を吐き、喉を震わせて叫ぶ。
「俺は出雲要!!出雲の出雲家出身にして、出雲桜花の兄で、刀剣流を極めた剣士。──そして魔剣の呪いを砕く、勇気を持ったものだ!!」
出雲要は走る。
「力を寄越せ『常世』!! お前に呪われるのはもう終わりだ!!」
気づけば手には『常世』がすっぽりと収まっていた。極自然と正しく出雲要の魔剣。呪いなんてものではなくなった。
出雲要が使役する魔剣。
万象が虚無に至るならこの世界に意味はない。それを常世は否定できない。だってそうだろう。魂を黒く染め自分を穢してまでも、多くの屍を築いてまでそれに負けない『意味』を求めた。
だが虚夢すらひっくり返す絶対的な『意味』はなかった。
故に認める。
万象が虚無に帰すならこの世界に意味はなく、無意味なのだと。
しかし無意味は虚無を意味しない。意味がないということは、ある種意味がないという意味を持っていることを示す。…飛んだ屁理屈だなと笑う人間もいるだろう。
だがそれでいい。屁理屈や幻想であろうと『勇気』があれば、それは真の事象となる。必要な勇気なのだ。
意味を求めるのは人間の悪い癖だ。同時に意味を求め、意味を作るのは人間のいい癖だ。だって人間にはそういったことを考えられる『心」と『魂』と『勇気』があるのだから。
今一度、声を上げよう。
「万象が虚無に帰すならこの世界に意味はない。だが意味はある!!」
これまでは己を蝕む黒い泥だった呪いが、今や出雲要の意志に従う純然たる力へと変貌する。
――一閃。
放たれた刃は、絶対の虚無であったはずの闇の天を文字通り真っ二つに両断した。割れた世界の隙間から、眩いばかりの現世の光が降り注ぐ
光は要の魂に輝きをもたらし、要は自意識を取り戻した。
結局のところ必要だったのは、『勇気』だったのだろう。魔剣の呪いを打ち払い力を手にする覚悟が。
そしてその勇気はユダが生き様で教えてくれた。彼は理不尽を勇気を持って打ち払う姿で。
何よりも彼は出雲要の名前を覚えていてくれたのだ。
(ありがとうユダ君...)
こうして出雲要は現世に戻ったのだった。
── ── ──
「…目を覚ましてくださいよ常世隊長…いや◼◼◼!!」
ユダは、涙で濡れた常世の冷たい手を両手で固く握りしめた。そして祈るように常世の真名を口にする。
──奇跡は起きた。
ユダの涙が、要の冷え切った手の甲にぽつりと落ちた、その瞬間。
固く閉ざされていた要の瞼が、微かに、本当に微かに震えた。
「……ユダ、君……?」
掠れた、けれど確かに現世へと引き留められた男の声が、静まり返った病室に響く。
ゆっくりと開かれたその瞳には、さっきまでの虚無の色は一切なく、ただ真っ直ぐに愛弟子を見つめる、いつもの穏やかな光が宿っていた。
「隊長……っ!!」
ユダは声を詰まらせ、さらに強くその手を握りしめる。
世界からの拒絶を打ち破り、己の名前を、そして『勇気』を取り戻した剣士は、今度こそ大切な者たちのいる世界へと帰ってきたのだ。
「ありがとうユダ君。君の声、ちゃんと俺に届いた。…ただいま」
ユダは泣きじゃくるのをやめ、とびっきりの笑顔を見せて──
「おかえりなさい常世隊長!!」
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