第二章第三十七話『いずれ虚無に至ろうとも』
ギルドでの日々は常世に目新しく、恐らく楽しかったのだと思う。
フェリスやアルスといった才能ある若者を導き、助けが必要な存在を助ける。
五感が薄れ、世界から消えかけようとしていた彼にとって、そこは確かな居場所であった。
その頃には、人から忘れ去られることは完全になくなった。その代わり、急速に五感や睡眠、食事に排泄といった人間としての機能が奪われていった。
恐怖はなかった。否、恐怖すらも奪われた。
「常世隊長!! 模擬戦お願いするぜ!!」「フェリス僕が先だ!!」「きゃぁぁ常世…隊長尊い!!」
そんな喧騒が心に温かみをもたらしていたのは確かな事実だ。
騒がしい日常の中で、常世は静かに己の役割を全うしていた。アルデバランが言っていた『世界に意味を与える存在』がいつ現れるのか、それはまだ分からない。
けれど、今目の前で必死に生き、強くなろうとしている彼らを導くこと自体が、常世の凍りついた時間を少しずつ動かしていた。
そしてその日は、大罪教の大規模テロと共にやって来た。
ちょうどアアル王国全土を覆う結界の交換作業をギルドマスターがしていたときだ、『傲慢の罪人』が王都の学術区、アアル魔力大学の上空に襲来し、そのまま大規模魔術を幾つも放った。
王都の街は一瞬にして燃え焦がれた。
常世は直ぐにと立ち上がり、漆黒の魔剣『常世』を帯剣する。すでに五感の多くを失い、恐怖や焦燥といった感情すら機能していない彼の心は、王都の半分が火の海に包まれているこの状況でも、不気味なほどに凪いでいた。
外に出ると、かつて美しかった学術区は見る影もなく崩壊し、上空には傲慢の罪人が放つ圧倒的な質量の魔力が渦巻いていた。逃げ惑う人々、倒れ伏す魔術師たち。敵味方の区別なくすべてを蹂躙する理不尽な暴威。
(ああ、やはり世界は醜悪で、理不尽に満ちている)
そう再確認しながらも、常世の足は止まらない。アルスやフェリスたちが必死に市民を誘導し、絶望に抗って武器を構えている姿が、かすむ視界の端に映る。彼らが繋ぎ止めてくれるこの日常を守るため、常世はただ淡々と、襲い来る大罪教やテロ組織の人間を斬り伏せていった。
今直ぐにでも主犯である『傲慢の罪人』をたたきに行きたかった。だがギルドマスターが命令を下し、自分以外がアアル魔力大学の中に入ることを許さなかった。
何でこれを自分の魔力感知で感じられなかったのかと思いながら、ただ敵を倒して行くのだった。
―― ―― ――
「常世…こいつが俺が話した『勇者』だ」
事態が落ち着き、皆が悲しみに暮れる中、常世は医務室に赴き希望の少年を見た。常世は、アルデバランの言葉を頭の中で反芻しながら、寝台に横たわる銀髪の少年を見つめた。
激しい戦いの後、静まり返った医務室には、どこか張り詰めた空気が漂っている。王都の半分を灰に帰した『傲慢の罪人』の襲来。その大災厄のただ中にあって、この少年は生き残り、そして確かにあの理不尽な空を睨みつけていた。
少年の身体は傷だらけで、呼吸もまだ浅い。しかし、眠っているその顔には、過酷な運命に抗おうとする強い意志の名残が刻まれているように見えた。
(世界に意味を与える存在……)
五感を失い、感情すらも奪われ、ただ虚無に向かって消えゆくだけだった自分の生。その暗闇の中に、アルデバランが投げ込んだ一筋の光が、今こうして目の前で息をしている。
常世は、腰に帯びた魔剣『常世』の柄にそっと手を置いた。冷たい金属の感触だけが、今の彼に己の輪郭を教えてくれる。
「ユダ、という名前だ。お前がこの子を育てろ」
アルデバランが静かに告げる。その名前が、常世の機能不全を起こしかけた胸の奥に、確かな楔となって打ち込まれた。
いずれ何もかもが虚無に帰すとしても。この少年が世界にどのような意味をもたらすのか、それをこの目で見届けること。そして、その時までこの命を繋ぎ、彼を育てること。
「……分かりましたギルドマスター殿」
常世の乾いた喉から、低く、微かな決意を孕んだ声が漏れた。
彼に剣を教えていく中で次第に理解していった。ユダは確かに『勇者』の権能を持ち、世界を変える素質を持っていること。だが常世のような臆病者に意味を与える存在ではないのだ。
最初はアルデバランに与えられた「役割」として、義務的に少年に向き合っていたに過ぎなかった。しかし、血の滲むような鍛錬に耐え、理不尽な世界に対して一歩も引かずに立ち向かおうとするユダのひたむきな姿は、徐々に常世の乾ききった心を動かしていった。
人間としての機能を失い、恐怖という感情さえ奪われ、ただ虚無を待つだけだった自分。
そんな自分に、運命に抗うための本当の『勇気』を教えてくれたのは、守り育てるべき対象であるはずの、その銀髪の少年だった。
「彼に自分の期待や希望を押し付けない。ただ彼が自分の思いや願いを叶えられるように育てる。それが俺のやるべきことだ」
そして常世の最後は、ユダが育ち切る前に訪れた。




