第二章第三十六話『万物はいずれ虚無に至る』
それから遺言に従って旅に出た。
その旅路はいずれ虚無に至る道だ。
いずれ世界から拒絶され、完全に『世界から忘れられる』。そんな結末を知っておきながら、ただ呆然と旅を続ける。
万物はいずれ虚無に至る。
常人であれば、その恐ろしい事実に蓋をし、いつか訪れる遠い未来の話としてうっすらとしか感じていない。明日が来ることを疑わず、今日という日に意味があると信じて疑わない。
そうでなければ、正気を保って生きていくことなどできないからだ。
しかし、魔剣『常世』の呪いを受け、生きながらにして世界から切り離され続けている成年には、その終着点が、あまりにもくっきりと、残酷なまでの解像度で認識できていた。
「…天に問う。万物がいずれ虚無に至るのなら、この世に生を受けたことや、この世界に何の意味があるんだ?」
ぼんやりとした夜。
雲に遮られた月明かりすら届かない深い闇の中で、常世の絞り出すような呟きが、冷たい夜気に溶けて消えた。
その問いに応える者は誰もいない。
天に問うても、天上の存在は何も答えない。はたまた人の上には何も存在しないのかもしれない。だとしたらなんと悲しくて、虚しいのだろう。
古代にはある伝説があった。
死後、人は魂だけとなって天上へと昇り、現世の罪や徳に応じて地獄や天国にいく──。
生前の行いはすべて天上の鏡に記録され、いかなる善行も、いかなる悪行も、等しく清算される場所がある。
だが生きとし生ける全ての命はもう知っている、死後の自分達を待っているのは『魂の道』を通じた循環の理であり、裁きなんてものは存在しない。それを古代の人は知っているはずなのに、なんでこんな伝説を信じたのか。
その理由は定かではないが、現世の理不尽や苦しみから救われたかったからかもしれない。
自分の行いが誰にも見られず、報われないまま終わる恐怖。それに耐えるには、現世を超越した絶対的な裁きや救済という物語が必要だったのだ。
それほどまでに意味を求めていたのだ。
意味を求めるのは人間の悪い癖だ。
そして◼◼◼も意味を求めていた。
「万物が虚無に至る。それは俺も例外ではない。だったら何か意味をくれ。虚無に至ると知っておきながら、この薄暗い道を歩くための理由を」
もう一度言おう。意味を求めるのは人間の悪い癖だ。
そして、かつて出雲の嫡男であった少年もまた、その『人間』に他ならず、心の中で必死に意味を求めていた。
世界から拒絶され、存在そのものを消されながら、それでもただ呆然と歩き続けている。もしこれがただ消滅を待つだけの旅だというのなら、なぜ自分の足はまだ前を向いているのか。なぜ心臓は脈打ち、呼吸を続けているのか。
再び天に仰いでも、沈黙を続ける。
意味は自分で見つけるしかなかった。
それから暫く、常世は仮初めのある意味を自分に持たせた。『この世を少しでも良くするために、人の法で裁きを下せなかった、度し難い悪をその魔剣で裁く』。
まるで子供のような夢だ、『世界を良くするなんて』。
心のそこではこんなことに何の意味もないと思っていたのかもしれない。けれどもこれに意味があると思えないと、常世はこの旅路を到底歩いていけなかった。
それから何度も度し難い悪を殺した。
何度も、何度も、何度も。
明日を求めた屍の上を、明日の意味を求める臆病者が歩いていた。
彼が斬り捨てた者たちにも、彼らなりの歪んだ「明日への欲望」があったのだろう。それを一方的に虚無へ還しながら、常世はただ、己が足を止めないための言い訳を重ねていたに過ぎない。
「……くそ、頭が、狂いそうだ」
何度目かも分からない断罪の夜。男を斬り伏せた瞬間、生々しく飛び散った赤い液体が少年の頬を濡らし、視界を重く染め上げていった。
鉄の匂いが鼻腔を突き刺し、自分が犯してきた執拗なまでの執刀の数が、文字通り津波となって常世の精神に押し寄せる。衣服に染み付いたその赤は冷たく肌に張り付き、まるで自分が奪った者たちの執念に引きずり込まれ、溺れそうになるほどの錯覚を抱かせた。
もう仮初めの意味ですら、常世を歩かせる理由にならなくなった。清く澄んだ川の近くで、血に溺れた臆病者は力なく倒れた。
大罪に蝕まれた刀剣流の剣王を殺し、その身をアアル王国に移したときには常世は刀剣流の剣王となっていた。
高い実力を宿し、他国に渡ってもやることは変わらない。
度し難い悪を『常世』を使って殺す。
そんなある日、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れたように、彼は見知らぬ街の薄暗い路地裏へと倒れ込んだ。
仰向けに倒れた視界の先、空からぼんやりと雨が降ってくるのが見える。だが、不思議とその雨粒が肌を打つ冷たさも、激しい雨音も、彼にはほとんど感じられなくなっていた。
世界からの拒絶の呪いは、ついに成年の肉体から五感すらも奪い去りっていたのだ。
「よぉいかしたお兄さん。そんなところで倒れたどうした?」
自分を対象にしてかけられた声だと築くのに、数秒かかった。常世はその男に顔を覗かれていたのに気づかなかったのだ。
「──」
言葉に詰まった。
ここで言葉を話すことになんの意味があるのだろう。どうせいつれば虚無に至り、忘れさられるのだ。ならば意味などない。
そう考えた沈黙を続けた。
「そういう感じなら俺は一方的に話すぜ。俺の名前はアルデバラン・イハート。ここアアル王国の王都の警備をしている『ギルド』のギルドマスターだ。お前の噂は聞いている。どうだ? 俺のギルドに入らないか?」
意味が分からない。
急に現れた怪しい男の誘いに誰が乗るというのだろうか。
「……意味が、分からない」
常世の乾いた喉から漏れ出たのは、微かな拒絶の響きを含んだ掠れ声だった。
五感が薄れ、世界そのものから消え去ろうとしている自分に対し、この男は何を言っているのだろうか。
急に路地裏に現れたかと思えば、素性も知れない怪しい名乗りを上げ、あろうことか『ギルド』などという見知らぬ組織へ勧誘してくる。その意図も、狙いも、今の常世には到底理解できなかった。
しかし、アルデバランは常世の冷ややかな態度に怯むどころか、さらに愉快そうに目を細めた。
「お前がここでただ雨に打たれて消えるのを待つか、それとも俺の場所でその刀を振るうか、選ぶのはお前だ」
「──俺はこの刀に呪われ、世界から拒絶されている。いずれ世界から忘れられる身だ。いずれ虚無に至るのに、生きる意味は、何か行動を起こす意味はあるのか?」
それが全てだ。
『万物はいずれ虚無に至る』。その事実は生きる意味を否定する。
だから常世はこの事実に押し潰されないように、確固たる意味を探していた。そして見つけた仮初の意味が『この世を少しでも良くするために、人の法で裁きを下せなかった、度し難い悪をその魔剣で裁く』。というものだ。
だが結局のところ、いくつもの屍を積み上げても、万物はいずれ虚無に至る』という事実に押し潰される。
「貴方は俺に意味を与えてくるのか、そうならば喜んで貴方のもとにつこう」
「そうか、なら俺がお前に意味をやるよ。近いうちに世界に意味を与える存在が俺のところに来る。お前にはそいつを育てて欲しい。意味を与える存在を育てる。それがお前の意味だ」
「そんなの、とんだまやかしだ」
常世は冷徹な一言を、アルデバランの顔に向けて吐き捨てた。
世界の理、魔剣の呪い、五感すら失いかけているこの現実。それらを前にして、誰かを育てるなどという都合のいい役割が生きる意味になるはずがない。
「世界に意味を与える存在……。そんな大層なものが本当にいるとでも言うのか? もしいたとしても、いずれ虚無に呑まれる。何もかもが無駄だ」
常世の瞳には、一切の希望も、生への執着も映っていなかった。ただ、自らの魔剣『常世』の重みだけが、辛うじて彼をこの世に繋ぎ止めている。
しかし、アルデバランは全く動じなかった。その豪快な笑みを崩さぬまま、どっしりと路地裏の壁に背を預ける。
「無駄かどうかは、その目で確かめればいいさ。どうせここで消えるのを待つだけなら、その賭けに乗ってみる価値はあるんじゃないか?」
男の言葉は驚くほどに真っ直ぐで、そして妙に確信に満ちていた。
常世はかすむ視界の中で、アルデバランの差し伸べられた無骨な手をじっと見つめる。
世界からの拒絶。消えゆく記憶。
すべてが虚無に帰すとしても、もし、本当にその「存在」が自分に意味をもたらすのだとしたら。
常世はゆっくりと、本当に僅かな、死に体の肉体を動かして手を伸ばした。
「お前、名前は?」
「常世。それが魔剣に呪われた臆病者の俺の名前だ」
こうして常世はギルドに所属し、第一部隊の隊長となったのだった。




