第二章第三十五話『呪い』
あれから数ヶ月、路頭に迷いながらも何とか食いつないでいた◼◼◼は、自然と『常世』の力を制御できるようになっていた。
そう言っても抑えられるのはごく僅だが、瞬時に世界から切り取られて忘れさられるなんて言うことはなくなった。
しかしそれは同時に、周囲の悪意を真っ向から受けることも意味していた。ここ数日、無法者たちに追われ、身を隠し、ただ生き延びるためだけにその小さな刃を振るい続けた少年の体力は、もう一歩も歩けぬほどに底を突いていた。
「……ここまで、か」
ぬかるんだ泥の中に、少年は力なく倒れ伏した。
視界が急速に狭まり、冷たい雨水が顔を濡らす感覚さえも次第に遠のいていく。薄れゆく意識の中で、彼は冷徹な現実を受け入れかけていた。
だが──。
パツン、と頭上で何かが弾けるような音がして、身体を叩いていた激しい雨が唐突に止んだ。
いや、止んだのではない。彼の視界を遮るように、大きな、漆黒の蛇の目傘が差し掛けられていたのだ。
「大丈夫か坊主?」
泥水に響いたのは、低く、しかしどこか温かみのある男の声だった。
少年が重い瞼を辛うじて持ち上げると、そこには、傘の柄を握り、複雑な表情で自分を見下ろす男の姿があった。
その男の顔に、少年は見覚えがあった。
かつて出雲城の拝殿で、絶望の声を上げていた職人の一人。世界の不具合によって折れ落ちた神櫻の枝から、あの至高の魔剣『常世』を打ち上げた鍛冶職人だった。
「あなた……は……」
「その刀を見れば嫌でも分かる。俺たちが打った、あの呪われた剣だ。……すまねえ。俺たちの技術が至らねえばかりに、こんな小さな子供に恐ろしい呪いを背負わせちまった」
男はぬかるんだ地面に片膝を突き、少年の小さな身体を雨から守るように、しっかりと傘を傾けた。
呪いの効果により、男の頭からも少年の真名や「将軍家の嫡男である」という記憶はすでに抜け落ちている。
しかし、自分が打った刀、そしてその刀がもたらした『世界からの拒絶』という残酷な結果だけは、職人としての誇りと後悔とともに、彼の心に深く刻み込まれていたのだ。
「俺はお前の名前も、親の顔も思い出せねえ。明日になれば、今ここでこうして話しているお前の顔だって忘れるかもしれない。……だが、お前が生きていることだけは、この刀がある限り証明され続ける」
男は懐から、丁寧に布に包まれた握り飯を取り出し、少年の震える手に握らせた。
「お前を苦しめた責任は取らないといけない。お前さえよければ俺のところに来ないか?ちょうど鍛冶の手伝いが欲しかったんだ」
差し伸べられた傘の下、職人の男は少年の目線に合わせて静かに語りかけた。
その言葉は、冷たい雨に打たれ続けていた少年の心に、微かな、しかし確かな熱を灯した。
数ヶ月の間、世界から拒絶され、誰とも言葉を交わすことなく孤独に耐えてきた少年。 呪いの力を僅かに制御し、自身の存在を繋ぎ止めようとしていたその必死な姿が、職人の胸を締め付けていたのだ。
「手伝い……?」
「ああ。お前がその呪いと戦い続けるって言うなら、俺たち職人もまた、その剣と向き合い続けなきゃいけねえ。お前を一人で死なせたら、魂の道を通れない」
男の言葉に、腰の魔剣『常世』が呼応するように小さく鳴いた。
少年は差し出された握り飯を一口噛みしめ、泥と涙に汚れた顔を上げて深く頷いた。
「……行くよ。俺にできることなら、何でもする」
それからの日々、少年は職人の庵に身を寄せ、炉の火を絶やさぬようふいごを吹き、鉄を打つ槌音に耳を傾けて過ごした。
常世の能力制御は依然として不安定で、数日経てば職人の頭から「昨日まで一緒にいた少年の顔」がふと霞んでしまうこともあった。
しかし、朝起きて仕事場に向かうたび、男は少年が持つ『常世』の刀身を見て、己の悔恨と、この少年を育てるという誓いを思い出すのだった。
「いいか坊主、鉄は叩けば叩くほど強くなる。お前のその呪いも同じだ。世界がどれだけお前を拒絶しようとも、お前自身が己の芯を叩き鍛え続ければ、決して折れることはねえ」
「……うん」
少年は無言で重い槌を振り下ろし、赤く焼けた鉄を打ち続けた。
鍛冶の手伝いをする傍ら、彼は職人の庵の裏手で、独り剣の素振りを欠かさなかった。
身の丈に合わなかった魔剣『常世』の重さは、日々の労働によって鍛えられた腕にいつしか馴染み、その一振りに宿る虚無の力は、より洗練されたものへと進化していった。
その日々は幸せだった。
職人の庵で、鍛冶の手伝いをする。
まるで、ただの子供のようになれた。
自分を認識してくれる誰かがいて、生きるための役割がある。鉄を打つたびに火花が散り、その熱気だけが常世の凍てついた心を優しく溶かしていた。
呪いの制御が甘くなって職人が戸惑うことがあっても、机の上に置かれた二つの茶碗や、少年のために小さく仕立てられた作業着が、二人の絆を何度でも繋ぎ止めてくれた。
しかし、そんな穏やかな時間も長くは続かなかった。
季節が巡るごとに、職人が槌を振るう回数は目に見えて減り、代わりに激しい咳の音が庵に響くようになっていった。
「……ごほっ、ごほっ! ……ちえっ、炭の煙が目にしみやがる」
職人は強がって笑ってみせたが、その顔色は日に日に土色へと変わり、槌を握る分厚い手は微かに震えていた。病は、すでに男の身体を内側から深く、蝕んでいたのだ。それも、もはや医者や薬ではどうにもならないところまで進行していた。
ある冬の酷く冷え込む夜、職人はついに起き上がることができなくなった。 薄暗い寝床の中で、男は息も絶え絶えになりながら、枕元に佇む少年を見つめた。
「こいつはやばい。だぶん俺は死ぬぜ」
「縁起でもないこと言うなよ! 明日もまた打つんだろ!!」
常世は声を荒らげた。必死に魔剣の呪いを抑え込み、職人の視界の中に自分を繋ぎ止めながら、その手を強く握り締める。まだ幼い少年の手に対して、職人の手は幾重にもマメが潰れ、煤が染み付いた、無骨で巨大な盾のようだった。
「もし、本当にもしもの話だ。俺が死んだらここは売り払え。そしてその金で旅に出ろ。旅はお前の知見を広めてくれる。それにその呪いを解除する方法が見つかるかもしれない」
「……旅、なんて……。俺が外に出たら、またすぐにみんなに忘れられちまう。ここ以外に、俺の居場所なんて……」
常世は小さく震える声で拒絶しようとした。
世界のすべてから忘れ去られる恐怖を、誰よりも知っているのは彼自身だ。この庵という狭い世界だけが、彼の唯一の拠り所だった。
しかし、職人は残った力を振り絞り、常世の頭を優しく、だが力強く引き寄せた。
そこからは、自分を肯定してくれる優しい愛の言葉が口にされるはずだった。常世は無意識のうちに、その温もりに縋ろうと目を閉じる。
しかし──現実は無情だ。
「……お前は誰だ?」
「……ぇ」
耳を打ったのは、骨まで凍りつくような冷徹な声音だった。 常世が弾かれたように目を開けると、親方の隻眼からは、先ほどまで灯っていたはずの父親のような慈愛が、綺麗さっぱりと消失していた。
そこに残されていたのは、見知らぬ悍ましい子供を間近に見たことへの、深い困惑と怯えだけ。
それが最後の言葉だった。 職人はそのまま、二度と動かない骸へと変わった。少年を「自慢の息子」と呼んでくれた男の魂は、最期の瞬間に少年の存在を完全に剥ぎ取られ、永遠の忘却の彼方へと旅立ってしまったのだ。
キチキチ、と不気味な鳴き声が庵に響く。 常世の腰に帯びられた魔剣『常世』が、まるで見たいものが見れたと言わんばかりに、歓喜に震えてゲラゲラと笑うような不快な共鳴音を放っていた。
──最初から最後まで、『常世』の思う壺だったのだ。
数ヶ月前、少年が「呪いを多少なりとも制御できるようになった」と思い込んでいたことすらも、すべてはこの魔剣が仕組んだ悪辣な罠だった。
魔剣『常世』は、ただ主を世界から孤立させるだけでは満足しなかったのだ。一度は自分の力で「世界に繋ぎ止められた」という希望を持たせ、家族と呼べるほどの深い絆を結ばせる。
そして、その人間が命を落とす最も無防備で残酷な瞬間に、すべての記憶を強奪する。 掴みかけた幸福が、一瞬にして指の隙間から零れ落ちるその極上の絶望こそが、この至高の魔剣の真の目的であり、大好物の蜜だったのだ。
「あ……あ、あぁぁ…………っ!!」
常世は、声にならない悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。
出雲城で家族に拒絶された時以上の、底知れない暗黒が少年の心臓を握り潰す。自分がどれだけ足掻こうと、どれだけ技術を磨こうと、隣にいる者を幸せにすることなどできない。
自分が他者と心を交わした瞬間、その結末には必ず、この魔剣による「存在の抹消」が待っているのだ。
手の中で怪しく脈動する『常世』の柄。少年はそれを憎悪の目で見つめ、しかし、同時に理解してしまった。 もはや自分には、この呪いと同化して生きる道しか残されていないのだと。




