第二章第三十三話『世界が忘れようとも』
次に目を覚ました時、ユダは何の問題もなく歩けるまで回復していた。
「そういえば常世隊長はどうしているんだ」
ユダはふと、常世のことを思い出した。出雲城からの撤退作戦では殿を努め、その後の奪還作戦では単独で大罪教と向き合い、大罪教の戦力を八割をけずり、憤怒の権能の力を大きく弱体化させた。
彼がいなければ、今の現状はなかったと言っていい。
常世といえば少しおかしな事があった。ユダ達が罪人と戦おうとしていた時には、全員がすっぽりとその存在を忘れていたのだ。大罪教の影響だろうか。
どちらにしろユダはこうして覚えている。ユダが覚えているということは、みんなもきっと忘れてなどいないはずだ。
(まぁリハビリがてらアルスとフェリスに会いに行って、常世隊長のことを聞くか)
ユダは包帯を解き、ベッドからゆっくりと床に足を下ろした。
まだ少し筋肉が強張るような違和感はあるものの、五日前とは比べものにならないほど体が軽い。マナの懸命な治療のおかげだろう。
「よし……動ける」
一度深く呼吸をしてから、ユダは部屋の扉を開けて廊下へと出た。
向かうのは、先ほどマナから聞いたアルスやフェリスたちがいるはずの控室、あるいは別の病室だ。
「あ、ユダ! もう歩いて大丈夫なのか!?」
廊下の角を曲がったところで、書類を抱えたアルスと、その後ろを歩くフェリスの姿が見えた。フェリスはユダの姿を見るなり、驚いたように目を丸くして駆け寄ってくる。
「フェリス、アルス。うん、マナ副隊長のおかげで、もうすっかり歩けるよ。……二人とも、ちょっと聞きたいことがあるんだ」
ユダの真剣な表情に、アルスがわずかに眉をひそめた。
「どうした、ユダ。やっぱり何か体に変調が…」
「いや、そうじゃないんだ。……常世隊長について、何か聞いてないか? 俺たちが戦っていたとき、なぜかみんな彼のことを忘れていただろう。常世隊長は今、どこにいるんだ?」
その問いを発した瞬間。
フェリスとアルスの顔から、すっと表情が消えた。
「……え?」
アルスが小首をかしげ、抱えた書類を落としそうになりながら、ひどく困惑したような声を出す。
「ユダ、何言ってるんだ? ……トコヨ、隊長って、誰のことなんだ?」
「は…?」
(…なに、言ってんだよ…)
「流石に二人とも笑えない冗談はやめろよ!」
「冗談? ……いや、僕たちは大真面目だ。なぁフェリス、お前『トコヨ』なんて名前の隊長に心当たりはあるか?」
アルスは心底不思議そうに眉をひそめ、隣のフェリスに視線を振った。フェリスもまた、からかわれた時の不満げな顔ではなく、ただただ困惑した様子で何度も首を横に振る。
「ああ、全然ねーな! そんな凄腕のやつがいたら、いくら馬鹿な俺でも忘れてないぜ!!」
二人の瞳には、嘘や悪ふざけの色など一変の塵ほども混ざっていない。本当に、心の底からその名を知らないのだと、その真っ直ぐな眼差しが物語っていた。
「う、嘘だろ……。だって、あんなに凄まじい戦いをして、俺たちをここまで繋いでくれたんだぞ!? マナ副隊長が記憶を失くしたのだって、その人が憤怒の力を弱めてくれたからで……!」
ユダの声が自然と大きくなる。自分の頭の中に確かに焼き付いている、あのあまりにも大きすぎる常世の背中。それがまるで、自分一人だけが見た幻覚であるかのように扱われている恐怖が、じわりと背筋を這い上がってきた。
「落ち着け、ユダ」
アルスが書類を近くの台に置き、ユダの肩をがっしりと掴んだ。その手の温かさと力強さが、なぜだが今のユダの神経を逆撫でた。
「うるさい!!」
ユダは思わず叫び、アルスの手を強く振り払った。
その激しい拒絶の音は、静かな廊下に重く、痛々しく響き渡る。
アルスは驚いたように目を見開き、振り払われた自分の手を一瞬見つめてから、すぐに沈痛な眼差しでユダを捉えた。隣のフェリスも、普段の明るさが嘘のように完全に硬直している。
自分がしたことなのにユダはその視線に耐えられなくなり、場から離れるように走り出した。ユダは荒い息を吐きながら、がむしゃらに廊下を駆け抜けた。
背後から「ユダ!」と自分を呼ぶアルスとフェリスの声が聞こえた気がしたが、今の彼にはそれを振り返る余裕などなかった。頭の中が、冷たい恐怖と混乱でぐちゃぐちゃに支配されている。
(なんで、どうして誰も覚えていないんだ……!?)
目の前に現れた一つの扉。ユダは弾かれたようにその取っ手を掴み、中に滑り込むようにして部屋へと飛び込んだ。勢いよく扉を閉め、背中でそれを強く押しつける。
そこには複数台の寝台があったが、使われていたのは僅か一台だけだった。
そしてユダはそのたった一台の寝台に引き寄せられていた。引き寄せられるようにして、ユダはその寝台へとゆっくり歩みを進めた。
外 の喧騒を遮断したかのような静寂が漂う部屋。白く清潔なシーツの上に横たわっているのは――
間違いなく常世の姿だった。
「常世隊長……っ!」
ユダは弾かれたように寝台のそばへ駆け寄った。
確かにそこにいる。アルスもフェリスも「知らない」と言った、忘れられた男が、静かに眠っている。
外傷は一切なく、その美顔は保たれたままだ。それなのに常世は目を覚まさない。その姿は魂が抜けたようであった。
「起きてください、常世隊長……! みんな、あなたのことを忘れてるんだ……! 冗談じゃない、本当に誰も覚えてないんだよ……!」
悲痛な叫びを上げても、常世の瞼がピクリとも動くことはない。
世界から彼に関する記憶が消え、今や身体だけがここに残されている。マナたちが彼を誰とも知らずにこの寝台へ運んだのだとしたら、彼らはこの眠り続ける男を、ただの名もなきものとして扱っているに過ぎないのだ。
「そんなの……あんまりだ……」
ユダは確かに出雲に向かう船上で誓った約束を守り、世界が忘れた今でも常世の存在をきれいに覚えている。
だがそれだけだ。
ユダが覚えているだけでは彼を救えない。結局、ただ覚えているだけにすぎないのだ。己の無力さが、容赦なくユダの胸を抉っていく。
「くそ…、どうして俺は何もできないんだ!!」
冷たい雫が一つ、また一つと彼に向けて落ちていく。けど彼は目を覚まさない。ユダが泣きじゃくっても状況は変わらない。
『だったら俺は世界が忘れようと絶対に!! 常世隊長のことを忘れない!!』。ユダはそれを叶えただけでは満足できない。
彼が再び目を覚まし、世界が思い出さないと、最上の結果とはいえないのだ。そんな我儘を世界は許してくれない
(俺はこの人を救えない。いや、違う。あの日、俺はこの人から真名を教えてもらったじゃないか!!)
「…目を覚ましてくださいよ常世隊長…いや◼◼◼!!」
ユダは、涙で濡れた常世の冷たい手を両手で固く握りしめた。
そして祈るように常世の真名を口にするのだった。




