第二章第三十二話『決戦後』
深い闇の底から引き揚げられるようにして、ユダは意識を取り戻した。
「――っ、はぁ!」
弾かれたように目を開くと、視界に飛び込んできたのは見慣れた天井だった。神櫻の灰にまみれたあの戦場ではなく、清潔な寝台の上に自分は横たわっている。 途端に、全身を凄まじい筋肉痛と、あちこちに巻かれた包帯の痛みが襲った。
「ユダちゃん! 気がついたの!?」
目を覚ましたユダのところにマナがかけつけた。状況を見るに彼女がユダの治療をしてくれたのだろうか。
「マナ副隊長生きていたんですね、良かったです…」
「…うん、和葉さんが身を挺して守ってくれたから生き残れたの。だから今はこうしてみんなの治療をしているの! …って、それよりユダちゃんは自分の体を心配して! 五日間も寝てたんだから!!」
「五日、も……?」
ユダは掠れた声で呟き、自分の包帯だらけの右腕を見つめた。
それだけの時間が経つほど、あの戦いが肉体の限界を超えたものだったのだと、ズキズキと痛む全身の感覚が伝えてくる。
「……みんなは、他の皆は無事なんですか?」
「うん、みんな重傷だけど、なんとか命は取り留めたよ。アルスちゃんにフェリスちゃんも、他のギルドの仲間たちも、出雲の武士たちもね。和葉さんも、まだ寝てるけど容体は安定してるから安心して」
マナは少し寂しげに、だけど温かい微笑みを浮かべてユダの胸元にそっと手を置いた。彼女の掌から、微かな、しかし心地よい治癒の魔術の温もりが流れ込んでくる。
ユダはその温もりに救われながらも、ふと、あの戦いの最期にマナが叫んだ言葉を思い出していた。
――『ちょっと忘れてしまうかもしれないけど』。
「マナ副隊長……あの、俺たちのこと、ちゃんと覚えて、ますか……?」
恐る恐る尋ねたユダの言葉に、マナは一瞬だけ丸い目をさらに大きくした。それから、悪戯っぽく、だけど少しだけはにかむように笑ってみせる。
「なにいってるの、ユダちゃん。忘れるわけないじゃない! ちょっとだけ、出雲に来る前の遠い昔の書類仕事のやり方とか、お気に入りの甘味処の名前を忘れちゃったくらいだよ。ギルドの大切な仲間たちのことなんて、絶対に忘れたりしないんだから!」
その言葉が本心からのものか、あるいはユダを安心させるための強がりなのかは分からなかった。けれど、彼女が今、目の前で自分のために笑ってくれている。それだけで、あの凄惨な地獄を戦い抜いた意味があったのだと、ユダは深く救われるような思いだった。
「よかった……本当に、よかったです……」
安堵から、ユダの目から一筋の涙がこぼれ落ち、枕を濡らした。
「喉乾いたでしょ! 水取ってくるね!!」
そう言ってマナその場から離れた。パタパタと小走りで部屋を出ていくマナの後姿を、ユダはぼんやりと見送った。
一人残された静かな室内。窓から差し込む柔らかな光が、神櫻の地で繰り広げられたあの凄惨な死闘が嘘であったかのように、穏やかに部屋を照らしている。
ユダはゆっくりと深呼吸を試みた。胸の奥にまだ微かな痛みが走るものの、あの大気ごと焼かれるような熱さはもうない。
(生きている人はいたんだ……)
その事実が、何よりもユダの心を軽くしていた。和葉の形見となるかもしれなかった魔剣で繋いだ命。マナが自らの大切な記憶と引き換えに切り開いてくれた一瞬の好機。アルスやフェリスたちが命懸けで繋いでくれた、あの最後の攻防。
失った命は確かに多すぎる。だがこの光の差す世界へ戻ってこられたのだ。
「お待たせ! はい、お水ね。ゆっくり飲むんだよ」
戻ってきたマナが、木製のコップをユダの口元へと優しく添える。
冷たい水が乾ききった喉を潤していくと、止まっていた思考が少しずつ、これからの現実へと動き始めるのを感じた。
憤怒の罪人は消え、大罪教による出雲の危機は去った。しかし、最後に現れた『色欲の罪人』の存在、そもそもなぜ大罪教は神櫻で過去の記憶を見ようとしたのか、不穏な影はまだ完全に消え去ったわけではない。
「ぷはっ……、ありがとうございます、マナ副隊長」
コップを返しながら、ユダはベッドの脇に置かれていた和葉の魔剣に手を伸ばした。まだ微かに神櫻の霊気が残るその柄を握りしめると、自然と指先に力がこもる。
(和葉さんが起きたらちゃんと返さないとな…)
「ユダちゃん!! わたし他の患者さんのところい行くからベットで安静にしているんだよー!!」
「はーい、わかりました!」
ユダはパタパタと慌ただしく去っていくマナの後姿に、少し声を張って返事をした。再び静まり返った部屋の中で、手元にある和葉の魔剣の柄をそっと撫でる。
(安静に、か……。今は大人しく従っておくよ)
全身の筋肉や骨がズキズキと痛みを訴えている。ここで無理をすれば、マナの苦労を台無しにするだけでなく、これから目覚めるであろう和葉にも顔向けができない。
ユダはゆっくりと上体を寝台に横たえ、天井を見つめた。
窓の外からは、出雲の穏やかな風の音が聞こえてくる。あの白銀の地獄のような爆発、すべてを焼き尽くそうとした憤怒の罪人の執念、そして最後に現れた不気味な『色欲の罪人』。
「なぜ大罪教は、神櫻で過去の記憶を見ようとしたんだろう……」
ぽつりと呟いた疑問は、静かな部屋の中に溶けていった。大罪教の目的、奪われた権能の行方、そして世界の理不尽。まだ解決していない謎はあまりにも多い。
けれど、ユダの心には絶望ではなく、確かな温かさが残っていた。
(和葉さん、アルス、フェリス、みんな……。生きていてくれて、本当によかった)
失ったものの大きさに胸が痛むのは確かだ。それでも、繋がった命がある。守り抜いた明日がある。
ユダはゆっくりと目を閉じ、まずはこの傷ついた身体を癒すために、穏やかな眠りへと意識を委ねていった。次に目を開くときは、きっと仲間たちの笑顔が見られると信じて。




