第二章第三十一話『神櫻決戦』
「おおおおおおおおおおおッ!!」
ユダの喉から、血の混じった咆哮が迸る。
魔力で身体強化をする余裕はなく、剣すら失ったその右手を固く、ただ固く握りしめ、ユダは一歩を踏み出した。
対する憤怒の罪人もまた、炭化し、崩れ落ちかけの肉体をただ執念だけで駆動させていた。
漆黒の魔力などもうどこにもない。かつて世界を震撼させた権能の面影はなく、そこにあるのは、旧世界への憎悪を燃料に動く、無骨な肉の塊としての拳だった。
肉と肉が、骨と骨が激しくぶつかり合う、鈍く重い音が灰の世界に響く。
ユダの拳が罪人の無惨な顔面を捉え、同時に罪人の重い一撃がユダの痛めつけられた脇腹を抉った。息が止まり、肺の奥からせり上がる血をユダは容赦なく吐き捨てる。
痛い、苦しい、意識が遠のきそうだ。
だが、足元に倒れる仲間たちの気配が、ユダの膝を折ることを許さない。和葉が、アルスが、フェリスが、命を懸けて自分を繋いでくれたのだ。
「お前の大義のために……みんなが、どれだけ泣いたと思っているんだぁぁぁッ!!」
二撃目。ユダの放った渾身のストレートが、罪人の胸元に深くめり込む。ひび割れた炭化皮膚から、乾いた灰が激しく飛び散った。
「ガ……ハッ……!」
罪人の巨躯が大きくよろめく。しかし、その瞳にある狂気の灯火はまだ消えない。残された左腕を振り下ろし、ユダの肩を叩き潰さんばかりの勢いで殴りつけてくる。
「黙れ……! 弱者が、泣き続ける世界を、ここで、終わらせる……それの、どこが、間違いだ……ッ!!」
もつれ合い、泥と灰にまみれながら、二人はただただ互いを殴り続けた。
魔術も、技も、戦術もない。それは生存と理想を懸けた、原始的で、あまりにも泥臭い命の削り合い。
「うぉぉぉ!!」
憤怒の罪人が迫る。
ユダはあえて上体を大きく後ろへ反らし、自らの身体の軸を投げ出すようにして拳の軌道から頭をずらす。肉を焼くような風圧が鼻先をかすめ、罪人の巨躯が攻撃の勢いのまま、前方へとわずかに流れた。
──ここだ。
ユダは強引に踏み止まった右足の反動を利用し、今度は沈み込ませた身体を一気に跳ね上げる。
大振りの拳を繰り出したことで、憤怒の罪人の足元がおのずと浮き、その巨大な姿勢が劇的に傾く。完全にバランスを崩し、その胸元が無防備に晒された。
すかさず一撃を叩き込む。
すると憤怒の罪人が大きくよろめく。
「更にもう一撃…!!」
だが許されるのは一発までだ。罪人は、崩れかけた巨体を強引に捻って右の拳を突き出してきた。
「ガハッ……!」
鋭く放たれた罪人の一撃が、ユダの胸元に突き刺さる。骨が軋むほどの衝撃にユダの身体が大きく後方へと弾き飛ばされ、地面の灰を派手に巻き上げながら転がった。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
罪人は後退しようやく一息ついた。ユダは直ぐ様立ち上がり、息を整えながら鋭い眼光でやつを睨む。
互いに嘘をついていた。
魔力も武器もない、あるのは俺の拳のみ。これは嘘だ。無論、これまでの激戦でもう立っているのやっとのほどに消耗している。だが僅かばかりの魔力は残っていた。
ユダは『転移』の能力が一回使える魔力、憤怒の罪人は『硬質化」が一回使える魔力だ。
「はぁ……はぁ……」
息を整えながら、ユダは小さく息を吐き出す。
次の激突が、この地獄の戦いの、本当の最後。相手が『硬質化』を使えば、ただの拳では砕けない。だが、それを上回る速度とタイミングで『転移』を合わせれば、その防御すらも無効化できる。今のユダにそれほどの集中力があるかは別だが。
罪人の目が、再び怪しく光る。彼もまた、ユダが何かしらの手札を隠していることを見抜いているかのように、慎重にその身を構えた。
「来い……『勇者』……ッ!」
「おおおおおッ!!」
ユダは再び大地を蹴った。
残されたわずかな魔力が、罪人を包み込む。罪人の肉体が不気味な鈍色へと変色を始める。
『硬質化』。何度も苦しめられたのだ。もうそれがどんな意味を孕んでいるのが、嫌でも分かる。
今のユダは身体強化も何もしていない生身の人間だ。そんな状態で硬質化した拳を受けたのならどうなるか、想像に固くない。もう憤怒の罪人を止めれないどころか、生きることさえ許されなくなるだろう。
故に『転移』の能力をタイミングよく使い、相手の拳を回避してその上で全力のパンチを叩き込む。それがユダが考えた作戦。これしかないと、ユダは体内を巡る燃えカス同然の魔力を一点に集めつつ、罪人との距離をつめる。
タイミングを間違えたら死ぬ。その恐怖がその恐怖がユダの心臓を激しく打ち鳴らし、一瞬の迷いを生み出しそうになる。しかし、背後に倒れる仲間たちの顔が、その弱気を一瞬で掻き消した。
(ここで退けば、全てが終わる……!)
ユダは恐怖を執念へと変え、罪人の間合いへと真っ向から飛び込んだ。憤怒の罪人の超硬質化された拳が、容赦なくユダの顔面へと振り下ろされる。生身で受ければ間違いなく即死。
(ここで『転移』――いや違う! 何も自分が転移することにこだわらなくてもいい!)
あったではないか。憤怒の罪人によるサーモバリック爆発にさえも耐えた、一振りの魔剣が
(そうだ、あの人の魔剣なら――!)
灰の中に半ば埋もれていた、和葉の形見とも言える魔剣。持ち主を失ってもなお、その刀身は神櫻の微光を浴びて、静かに、しかし力強く存在を主張していた。
ユダは自分自身を転移させるのをやめ、その『転移』の魔力を、数メートル先に転がっている魔剣へと一瞬で割り振った。
「『転移』!!」
凄まじい金属音が響き渡る。
(俺に大人しく力を貸せ!!!)
ユダの手に突如として出現し。きれいに収まった和葉の魔剣。それを既のところで利用し、憤怒の罪人が放った超硬質化の拳を、文字通り肉薄のタイミングで受け止めたのだ。
「何だと……!?」
驚愕に目を見開く罪人。硬質化された拳の凄まじい質量と、魔剣の強固な守りが正面から衝突し、互いの凄まじいエネルギーが完全に相殺される。
反動で罪人の巨躯がわずかにのけ反り、その無防備な胸元が、今度こそ完全に、むき出しのままユダの目の前に晒された。
盾も、拳も、もう相手には残されていない。
だがユダには魔剣がある。それは大きなアドバンテージだ。これ以上ない絶好の機会にユダは焦りでおかしくなりそうになる。
『焦るなユダ君。冷静に相手を見ろ、君なら必ず勝てるはずだ。だって君は俺の地獄のような訓練を耐え抜いたじゃないか』
(誰の声…?)
この声の正体は分からないのではなく、ユダは忘れしまっている。きっと忘れてはいけない大切な誰かの声だ。きっと幻聴だと分かっていても、この土壇場でユダに勇気を持たせるものだった。むき出しになった、憤怒の罪人の胸元。
『硬質化』の輝きを完全に失い、ただの脆い炭化組織と化したその中心へ向けて、ユダは和葉の魔剣を真っ直ぐに構えた。
魔力による強化はない。あるのは、その腕に宿る確かな剣筋と、かつて血の滲むような訓練で叩き込まれた基本の型。
「おおおおおおおッ!!」
ユダは地を蹴り、全力の一撃を放った。 一切の迷いなき斜め一閃。
浅い。だが、確かにその刃は届いた。
「ガ、ハ……ッ……」
限界を迎えた憤怒の罪人は力なく崩れ落ち、ユダはその場に立ち尽くす。
「……俺の勝ちだ。罪人」
もう罪人に抗う力は残されていない。彼の命の灯火が静かに散り行く中、戦場にそよぐ冷たい風を割って、一人の女が音もなく姿を現した。
「誰だ……!」と叫ぶ余裕すら今のユダにはなく、ただその異様な存在感に目を奪われることしかできない。
「情けないですね。『憤怒の罪人』」
「し、『色欲の罪人』……」
憤怒の罪人が掠れた声でその名を呼ぶ。
「大罪教としては、貴方が『勇者』に倒されて権能が他に渡るのだけは避けたいのです。だからごめんなさいね『憤怒の罪人』。貴方の権能は、私たちが回収させていただきます」
妖艶な動作で女は歩み寄り、限界を迎えたユダの顎にそっと指先を触れさせた。その瞬間に凄まじい眠気がユダを襲い、視界が急速に狭まっていく。
「……それじゃぁおやすみなさい『勇者』。いい夢を」
意識が暗転していく中、ユダの目に最後に映ったのは、色欲の罪人が放った禍々しい魔力の光に包まれ、跡形もなく消滅していく憤怒の罪人の姿だった。
結果的にトドメは大罪教の身内に持っていかれてしまった。だが、ユダたちギルドが死力を尽くして敵の野望を打ち砕き、この地を守り抜いたという事実は決して揺るぎようがない。
こうしてユダたちギルド、そして出雲幕府は、長きにわたる大罪教との死闘にひとつの終止符を打ったのだった。




