第二章第二十五話『決意を』
感じたのは開放感だった。
何か言語化できない根源的な恐怖。まるで自分が自分でなくなるような感覚からの解放だった。
「…っつ、はぁぁぁ」
目を介して伝えられる情報は、大地を触って感じる情報は、鬱陶しく鳴る情報は、どれも自分の存在が世界から覚えられているという証拠だ。
一体何が。
一番最初に頭に浮かんだのはそんな疑問だ。起きていたことを羅列していっても、まるで何か大切なピースが欠けているようで真実にたどり着けない。
地面に伏しているのにも飽きて、男は立ち上がり確かに存在する足で大地を踏みしめた。そのままの勢いで深く息を吸って吐く。
残酷な事実。
憤怒の罪人はまだ生きていた。
常世は自身の呪いが完全に己を呑み込む覚悟で、魔剣『常世』を抜いて憤怒の罪人を殺そうとした。しかし最後の瞬間、刀が憤怒の罪人の命を散らすよりも早く、魔剣『常世』の呪いが常世を世界から完全に忘れさせた。
常世が世界から忘却された結果、憤怒の罪人が受けた魔剣『常世』の世界からの拒絶も術者がいなくなったことでなくなり、彼は何が起きたのか分からない状況で生き残った。
無論、常世との戦いの全てがなくなったわけではない。
抜刀前に受けた諸々の傷、魔力の消費、そして何よりも権能は傷付いたままだった。
(権能の効力が弱くなっている…!!)
自身の状況を確かめていく中で罪人はその事実に気づいた。
傷と魔力が少なくなっていることからは、自身が戦いを繰り広げていたことを、そして権能からは戦闘相手が強敵だったことを示している。
悪辣な笑みを浮かべる。
「だが勝った!! ……はは、はははは!!」
乾いた笑い声が、静まり返った神櫻に響き渡った。
その声は、かつて彼が持っていた憤怒の熱ではなく、自分を縛り付けていた絶対的な死の 恐怖から逃げ延びたことへの、生存の法悦によるもの。
しかし、その勝利の笑いはあまりにも空虚で刹那的ものだった。
笑みは時が経つたび、消えていたはずの憤怒になる。
自身を打ち負かしそうに至った存在が分からないこと。その喪失感が勝利の余韻に浸ることを許さず、憤怒の薪にした。
「誰だ……俺をここまで追い詰めたのは。どこの誰だッ!!」
罪人は叫ぶが、世界は答えない。ふと喪失感の中で目線を遠くに向けると、男が倒れていた。罪人は衝動に突き動かされて、そちらに向かう。
倒れていたのは黒長髪の男だ。
横たわる、もはや名前を呼ぶこともできない抜け殻を覗き込む。
整った顔立ち、死人のように白い肌、そして何より、戦いの最中に負ったであろう凄惨な傷の数々。しかし、罪人の記憶のどこを探っても、この男と刃を交えた記憶だけが抜け落ちている。
「っつ!!!」
罪人が男の胸ぐらを掴み上げようとした、その時だ。
「憤怒。貴様は誰と戦っていた?」
出雲城の方からやってきて、そう憤怒の罪人に言葉をなげたのは『咎人』ノインだった。
憤怒の罪人は、掴みかけようとした肉体を放り出し、忌々しげにノインを睨みつけた。ノインはいつものように感情の読み取れない無機質な瞳で、戦場の惨状を淡々と観察している。
「誰と戦っていた、だと? そんなことこっちが聞きたい!!」
憤怒の罪人が吠える。
目の前に転がっている、凄惨な傷を負った男。状況証拠はすべて、この男こそが自分を追い詰めた強敵であることを示している。しかし、脳内に広がる記憶にhsこの男に該当する座標が一点も存在しない。
「確かに、死の淵にいた。圧倒的な絶望がそこにあった! なのに思い出ない! こいつの顔も、技も、名前すらもだ!!」
「ふむ…そうか。不気味な魔力が溢れ出すことはあったか?」
ノインの質問に罪人は少し冷静さを取り戻した声で、「いや、なかった」と答える。
ノインは落ち着いた様子で顎に手を置いて、思案を重ねた。ノインの思考が回ると共に、言葉が漏れる。
「世界からの忘却。『管理者』の想定内とは思えないな。なら『アポカリプス』が起きないのはおかしな話…」
「もういい。世界がこいつを忘れたというなら、もう思い出せないということなのだろう。…戦った相手といえど、最低限の弔いはさせてもらおう」
そう言って罪人はノインから冷やかな目線を送られつつも、出雲城から離れた場所にその体を置いた。
埋葬なんてせず、ただ放置しただけ、されど敵の遺体の扱いとしては破格のものだ。
「それでどうする? とりあえず一難は去ったが、再び神櫻に接続するか? 前回の接続の後が多少残っているはず、少しは痛みを抑えて探し物ができるぞ」
「第二波が来るはずだ。警戒態勢を敷いておく。…といってもこちらの戦力は俺とノインしかいないがな」
「生者はな。屍兵はまだいる。しかし生者のうちの一人は頼りにならない」
ノインは憤怒の罪人を見ながら、ため息混じりに不安を口にした。それに対して、憤怒の罪人は鋭い眼光に睨みながら
「やはりお前は生意気だ。咎人と罪人、どちらが高位かは明白なはずだ。それなのにその態度を崩さないとはな」
「私はただ研究のために大罪教に身をおいているに過ぎない。貴様らの身分関係に興味などない。私に尊敬されたいのなら、有用性を示すのだな」
「はっ、誰がお前のような狂った学者から尊敬を得たいと思うか」
ノインやれやれと言いながら、出雲城の方に戻っていた。彼の戦場はあそこなのだろう。
憤怒の罪人は次の戦いを見据え、深い息を吐きながら目線を神櫻の通り道に向けた。敵が来るのならそこから。
「こいギルド、いや『勇者』。新時代の天地開闢のため、全力で叩き潰してやろう!」




