第58話 『血戦』
工房の中ではけたたましい音が響き続けていた。
ネルとアドルフの取っ組み合いで、家具が倒れ、並べられた工芸品が次々と机や棚の上から床に落ちる。
「地獄で兄貴が待ってるぜ!」
「兄者の元に送るのが女のおまえじゃガッカリしちまうだろうから、ナサニエルもきっちり送ってやるさ」
そう言うとアドルフは左手でネルの右手を掴む。
そして彼女の顎に強烈な頭突きを浴びせた。
思わずネルは後方にのけ反る。
「がっ!」
強い衝撃にネルは視界が揺れるのを感じた。
だが負けじとネルもアドルフに頭突きを浴びせ返す。
狙ったのはやはりアドルフの左胸だ。
「あぐうっ!」
苦痛の声を漏らすアドルフの胸を集中的に狙い、ネルは連続で何度も頭突きを浴びせた。
返り血でネルの額も赤く染まる。
だが幾度目かの頭突きを浴びた時に、アドルフは両手でネルの頭を胸に抱え込むようにして絞めつけた。
万力のように腕力でネルの頭を潰しにかかるアドルフの口から薄気味の悪い笑い声が漏れる。
「う、うふふふ。せっかくのかわいい顔が血で汚れているぞ」
「うるせえ! 気持ち悪いんだよ」
ネルは頭を抱えられたまま力任せにアドルフの体を持ち上げ、後方にある鉄の机に叩きつけた。
後頭部を強打したアドルフは思わずネルの頭を手放して倒れ込む。
「あぐっ!」
ネルは腰帯から最後の武器である万能小刀を抜き放った。
「本当に心臓が右にあるか確かめてやるよ!」
そう叫ぶとネルは小刀を振りかざしてアドルフに襲い掛かる。
だが、アドルフは驚異的な身体能力で跳ね上がると、後方に宙返りして下がる。
ネルはそれを追って猛然と突っ込むが、アドルフは先ほどネルが手放した鉄棒を拾い上げてそれをネルに投げつけた。
「チッ!」
ネルは左手でその鉄棒を跳ね除け、右手の小刀をアドルフの右胸に向かって突き出す。
だがアドルフはそれを体を反転させて紙一重で避けると、その勢いでネルの顔面に裏拳を浴びせた。
ネルは顔面の左側を強打され、真横に吹っ飛ぶ。
そして背中を鉄の机に強打した。
一瞬、目の前が真っ暗になる。
「がはっ!」
「ハッハッハ! 弓矢が使えぬこの狭い中では、おまえの力も半減だな!」
そう言うとアドルフは倒れたネルの上に馬乗りになった。
ネルは反応が遅れてしまい、それでもアドルフを跳ね除けようとする。
しかしアドルフは体重移動が巧みで、ネルを絶対に自分の下から逃がさなかった。
そしてアドルフは左手でネルの右手を押さえると体重をかける。
さすがにネルの腕力でも跳ね除けられない。
「寝技は得意なんだ。女を殺すための寝技は特にな」
すっかり興奮してそう言うとアドルフは目を爛々と輝かせる。
ネルは左手で下からアドルフを殴りつけるが、先ほど投げつけられた鉄棒を左手で弾き飛ばした際、手首を痛めたようで思うように力が入らない。
それを見たアドルフは右手でネルの首を思い切り絞めた。
さらに体重をかけてネルの喉を圧迫する。
「かはっ……」
ネルは苦しげに目を剥いた。
空気が吸えなくなる。
意識が揺らぐ。
(ま、まずい……失神しちまう……)
ネルは必死に左手でアドルフの側頭部を殴った。
だが、捻った手首の痛みと、態勢の悪さや酸素不足が災いして思うように力が入らない。
アドルフは何発殴られても狂気じみた笑みを浮かべ、まるで獣が吠えるような声を上げてネルの首を絞め続ける。
「逝ってしまえ! 天に上るような気持ち良さで逝ってしまえ!」
アドルフの膨張した股間のそれがネルに押しつけられる。
意識が遠くなりかけていたネルだが、その不快感に懸命に歯を食いしばり、目を見開いた。
そしてネルは左手を懸命に伸ばして、辺りを探る。
何かが手に当たって床の上で乾いた音を立てた。
(何でもいい。武器でなくてもいい。何か……何かが……)
地面の上を搔く彼女の左手がその何かを掴み取った。
ネルは力いっぱいそれをアドルフの顔面に叩きつける。
手に伝わってきたのは……鋭利なものが人間の肉に突き刺さった感触だ。
ネルは大きく目を見開いてアドルフを見た。
アドルフの口から苦悶の声が漏れる。
「がっ……」
見ると一本の鉄の矢がアドルフの右頬を貫いて口の中に到達している。
ネルは自分が握っているそれが何であるのか理解した。
それは……ナサニエルが作った不細工な矢の工芸品だ。
それがアドルフの頬に突き刺さっている。
「ぐうっ……」
アドルフの口の中から多量の血が溢れて零れ落ちる。
それはネルの顔を濡らして赤く染めた。
ネルは躊躇せずに矢を引き抜くと、今度は力いっぱいそれをアドルフの首に横から突き刺す。
矢はアドルフの首に深々と突き刺さり、鏃が首の骨を断ち切る硬い音を響かせて止まった。
「あぐっ……」
アドルフはそう言ったきり、目を見開いたまま動かなくなった。
全身の力が抜けたアドルフをネルは横に払い除ける。
首の圧迫が無くなり、ネルは大きく息を吸い込んで激しく咽た。
「ゴホッ! ゴホゴホッ!」
急激に酸素が肺を満たし始め、頭がクラクラするのを堪えてネルは立ち上がる。
そして近くに落ちていた自身の万能小刀を拾い上げた。
それから彼女は目を開けたまま横たわるアドルフの近くに座り込むと、その右胸に手を当てる。
確かにそこから弱々しい心臓の音が響いてきた。
まだアドルフはかろうじて生きているのだ。
「本当に……右胸に心臓があるのか。そんな奴は初めてだぜ……」
そう言うとネルは一息に小刀をアドルフの右寄りの心臓に突き立てた。
すぐに鼓動は止まり、アドルフは今度こそ本当に息絶える。
ネルは大きく息を吐き、その場に大の字にひっくり返った。
床にはアドルフが流した血だまりが出来ている。
そして血まみれの戦いを制したネルの手足も顔も血だらけだった。
ネルは袖口で顔の血を拭うと、むくりと起き上がった。
そして死んだアドルフの首に刺さったままの太い鉄の矢を引き抜く。
ナサニエルが作った不細工なその矢を見て、ネルは思わず腹の底からこみ上げてくる笑いを嚙み殺す。
アドルフに殺されかけて藁をも掴むように必死に手探りで掴み取った物が、偶然その矢だったことがネルはおかしくてたまらなかった。
「ナサ……くっ……くくく。またアイツに助けられちまったのか。役に立たねえなんて言って悪かったな。こいつに救われたぜ」
そう言うとネルはその鉄の矢を握りしめて勝利の笑みを浮かべるのだった。
☆☆☆☆☆☆
レギンと共にナサニエルは施錠した小工房でひたすらにネルの勝利を祈っていた。
ネルにもしものことがあったらと思うと体の震えが止まらない。
ナサニエルは自分がいかにネルに惹かれ、彼女を大切に思っているかを思い知った。
彼女のために祈る。
そんな祈りは彼女にとって不要だと知りながら、それでも彼は祈らずにはいられない。
(ネル。どうか無事に帰ってきて。こんなところで君の人生が終わっていいはずがない)
そんなナサニエルの様子に、寝台に横たわるレギンが静かに言った。
「大丈夫じゃ。あの娘っ子は……強い光をその目にたたえておる。ああいう者は……簡単にくたばったりはせん」
「先生……そうですよね」
そう言いながらも祈り続けるナサニエルの元にすぐに吉報は届けられることになるのだった。
他ならぬネル自身の声によって。




