第46話 『決死の逃走』
「この程度の腕力すらないとはな」
アドルフは怒りの表情で六角棒を回す。
ナサニエルが回せずに断念したそれは確かに硬かったが、男の腕力ならば回せないものではない。
貴族の青年の非力さを侮蔑しながら、アドルフは六角棒を回し続ける。
すると途中まで開いていた岩壁が再び少しずつ下に沈み込んでいく。
向こう側に兄であるデクスターの顔が見えてきた。
「ハハハ……いいぞ。兄者。もうすぐ……」
そう言いかけたアドルフは頭上から音もなく何かが降ってきたことに気付いた。
咄嗟に避けようとしたが、六角棒を回すことに意識が囚われていて反応が遅れたのだ。
そのせいで降ってきたものを頭から浴びてしまった。
「なっ……」
それは網だった。
しかも下部に錘がつけられた捕獲用の網だ。
アドルフの体に絡み付いた網は足元でキュッと締まる。
そして強烈な梃子と思しき力でアドルフの体は上に持ち上げられてしまった。
「くっ!」
アドルフは罠が仕掛けられていたことを知り、歯噛みする。
(あの若造。六角棒が回らないフリをして俺をハメやがったな)
全てはナサニエルの演技だったと知り、アドルフの頭は殺意で埋め尽くされる。
前方に目を向けると、すでにナサニエルは小人族の老人を抱えて逃げ出そうとしていた。
「逃がすか!」
アドルフは袖口に仕込んである小刀を取り出し、それで網を切ろうとした。
しかし網はどうやら鋼線入りらしく、簡単には切れない。
「おのれえぇぇぇ!」
アドルフは怒りの声を上げ、小刀の刃が駄目になるのも構わずに、網を切ろうとその手に力を込めるのだった。
☆☆☆☆☆☆
「先生! つかまって!」
ナサニエルはアドルフが罠にハマって網にかかるのを見ると、すぐに駆け出した。
そして倒れているレギンを抱え起こす。
レギンはわずかに目を見開き、口を動かした。
「ワシは……いい……おまえは……逃げろ」
「嫌です! 先生を見捨てて逃げられるわけないでしょう!」
ナサニエルはレギンを必死に背負う。
体の小さなレギンだが、筋肉質でガッチリしたその体は決して軽くなかった。
それでもナサニエルは歯を食いしばり、師を背負って立つと走り出す。
人を1人背負って走ることがこんなにも辛いとは思わなかった。
重い。
だがこれがレギンの命の重さなのだ。
何があっても手放すわけにはいかなかった。
「先生は……僕にとって……実の父よりも父親みたいな人なんです。絶対に死なせない。生きるのをあきらめないで下さい。先生がもっともっと色々教えてくれなきゃ、僕はいつまでも半人前のままなんですよ。いいんですか。たった1人の弟子が半端者のままで。僕は嫌です。先生にもっと一緒にいてほしいんです!」
ナサニエルは心の奥底から湧き上がる声を吐き出しながら懸命に走った。
自分があきらめれば、倒れてしまえば父にも等しい大事な人が死んでしまうのだ。
あきらめるわけにはいかない。
倒れるわけにはいかなかった。
「ネルを送り届ける予定だった出口から逃げ出しますよ。途中で彼女と合流しましょう。工房で待っているはずなんで」
それだけ言うとナサニエルは歯を食いしばる。
懸命に足を動かして走るが、向かう先は徐々に上り坂になっており、すでに彼の両足は疲労でパンパンになりつつあった。
その時、後方から大きなどよめきが上がったのだ。
ナサニエルは思わず立ち止まり、レギンを背負ったまま振り向く。
すると……300メートルほど後方で網から脱出したアドルフが、六角棒を回して仕掛け扉を開き、山賊たちを招き入れていた。
「まずい……急がないと!」
ナサニエルは懸命に走り出す。
だが明らかにその足取りは鈍っていた。
この時ほど自分のひ弱な体が恨めしいと思った時はない。
それでもナサニエルは止まらなかった。
街路を走り、階段を上ってレギンの工房に向かう。
しかし後方から声が近付いてきた。
山賊団が追ってきているのだ。
身一つの彼らの足は速く、レギンを背負って走るナサニエルとの距離はどんどん縮まってくる。
「くっ!」
ナサニエルは走り続けるが、山賊たちの囃し立てるような声はもうかなり迫りつつあった。
足の回転は鈍くなり、息は上がって肺が破裂するのではないかと思うほど苦しい。
「待ちやがれ!」
「捕まえろ!」
後方から山賊たちの怒声がハッキリと聞こえてきた。
ナサニエルは走りながらチラリと後方を見やる。
すると……ものすごい速さでアドルフが先頭を走って追いかけてくるのが見える。
その距離はもう100メートルほどまで迫っていた。
ナサニエルは恐怖を覚える。
しかしその時、背負っているレギンが耳元で囁いた。
「この先の左側にある酒蔵……隠し通路がある……そこへ」
レギンはこの街のことを知り尽くしている。
立ち並ぶ家屋には色々な隠し通路があるのだ。
ナサニエルはレギンの言う通りにその家屋へ飛び込む。
かつては酒樽として使われていた大きな樽の残骸がいくつも散らばっている。
「一番奥の……酒樽をどかした裏に……」
レギンの言葉に従い、ナサニエルは必死に酒樽を横にずらした。
するとそこには小人族が使うであろう小さな金属の引き戸があった。
ナサニエルはそれを引くと、通路の中に屈みながら入る。
「扉を……閉めて……錠を」
見ると引き戸には金属製の錠があり、引き戸が開けられぬよう施錠することが出来た。
ナサニエルはすぐにそれを施錠する。
そして暗闇に包まれた通路の先へと四つん這いで進んだ。
すぐに横穴は縦穴に変わり、上に上がるための梯子が備え付けられていた。
頭上からはわずかな光が振り注いでいるのだ。
その梯子を上っていると、後方から先ほどの金属の引き戸を蹴りつける音がガンガン響いた。
追いかけてきたアドルフが苛立って施錠済みの引き戸を蹴りつけているのだろう。
ナサニエルはとにかく梯子を上り切り、天井の蓋を開けた。
するとそこは別の家屋の中だった。
体力はもう限界近いが、それでもナサニエルは立ち上がる。
自分の体のどこにそんな力があるのかと思うほどだった。
自分がやらねばレギンが死ぬという危機的状況が彼を突き動かしているのだ。
「行きますよ。先生」
そう言うとナサニエルは家屋の外に出た。
その瞬間だった。
真横からドンと突き飛ばされて、ナサニエルとレギンは地面に転がってしまう。
「うぐっ……」
「見つけたぜ。お坊ちゃんよ。アドルフの兄貴の言う通り、回り道をして正解だったぜ」
そう言ってナサニエルを見下ろしているのは2人の山賊だった。




