第43話 『恐怖と怒り』
ネルとナサニエルは向こう岸からこちらに戻ると、そのままレギンの工房へと向かった。
作戦の成功とネルの仕事の終了を報告するためだ。
工房の周囲はいつも通り篝火が焚かれているが、物音はせずに静けさに包まれている。
「先生? 先生いませんか?」
ナサニエルの呼びかけにも工房の中からは返事はない。
ナサニエルはネルと顔を見合わせると、工房の中に入っていく。
しかし中は数時間前に訪れた時と変わらずに無人だ。
「おかしいな。先生まだいないのか」
首を捻りながらそう言うとナサニエルはレギンの工房の裏手に作られた自分用の小工房を確認しに行く。
だがやはりそこにもレギンの姿はなかった。
首を傾げながら出て来るナサニエルにネルは尋ねる。
「何だ。爺さんいないのか?」
「うん。もしかしたら製油所のほうに行っているのかも」
「製油所?」
そう尋ねるネルにナサニエルは説明した。
工業用の油を精錬する施設が少し離れた場所にあると。
可燃物である油を扱う場所なので、住居である工房からは離れた場所に作られているのだという話だった。
「先生は何日かに一回、油を作りにそこに行くからそっちかもしれない。僕が呼んで来るからネルはここで休んでいてよ」
そう言うとナサニエルはネルを工房に残し、製油所へと向かっていく。
残されたネルは工房の中を見回した。
そこには多くの鉄の矢が置かれている。
おそらくナサニエルとネルの作戦を補助するため、レギンが多めに作っておいたのだろう。
それを見て思わずネルは呆れ混じりに苦笑を漏らした。
「まったく。世話焼きな爺さんだぜ」
それからネルは工房内に所狭しと置かれた、レギンが作った数々の工芸品を見て回った。
あらためてネルはその精巧さに目を奪われる。
そんな中でナサニエルが最初に見せてきた、奇妙に太い鉄の矢だけが逆の意味で異彩を放っていた。
ふいにおかしさがこみ上げてきてネルは口元を綻ばせる。
「ふっ……ククク。何だこの不細工な矢は。ナサの奴め」
ナサニエルが作ったその矢は、実戦ではとても使えないような太くて重い矢だ。
だがナサニエルの人柄をある程度知った今のネルの目には、それは思わず笑ってしまうような愛嬌のある工芸品に映った。
この地を後にしてもナサニエルのことを思い返す時は、必ずこの矢のことを思い出すだろう。
「なかなか面白い経験だったぜ」
そう言うとネルはナサニエルの鉄の矢をその場に置いて、工房の外に出る。
そろそろこの地を去る時だった。
レギンに別れの挨拶を済ませ、ナサニエルから報酬を受け取ったら山の外に出て東を目指す。
もしデクスターの山賊団が現れようとも、邪魔者は排除するのみだ。
何の問題もない。
「最後にもう少しこの街を見て回るか。こんな場所は滅多に見られるもんじゃねえだろうしな」
そう言うとネルは付近の街並みを歩きながら見て回る。
そこで改めて気付くのはこの街が機能的に計算されて作られているということだ。
高低差のある街路は住民たちが移動しやすいように動線が敷かれ、効果的な場所に階段が作られることで近道が出来るようにもなっている。
それでいて要所要所で敢えて移動に時間がかかるようになる設計の街路もあった。
「ちゃんと外敵に攻められた時のことを考えて、守りやすいようにも作られているんだな」
古代の者たちが作った街にそのような英知が詰め込まれていることに驚きを覚えると同時に、そのような街でも住む者がいなくなってしまえばただの残骸に過ぎないのだという儚さをネルは感じた。
だが彼女は感傷に浸る性格ではない。
いつものように物見遊山の心持ちで街を見て回るのだった。
☆☆☆☆☆☆☆
水音が聞こえてきた。
ナサニエルの向かう先に川が見えてきたのだ。
この地下遺跡の中を流れるいくつかの川のうちで、最大の川だった。
川幅は10メートルほどあり、水量も多い。
この街はこの川から水を引いた用水路があちこちに張り巡らされている。
幅1メートルほどの側溝にも水が流れて、街の各所に水を運んでいた。
川にはかつてかけられていた石の橋が長い年月の中で崩れ去り、今はレギンのかけた吊り橋がかかっていた。
ナサニエルはそれを渡りきり、不思議な心持ちを覚えながら篝火の明かりを辿って製油所へ向かう。
「僕もついに吊り橋をかけられるようになるんだな……」
以前からずっと準備をしていたが、この数日で一気に自分の計画が実際に成功に向けて大きく動き出したということは、ネルと出会う前の自分にはとても信じられなかっただろう。
レギンといいネルといい、人との出会いというのは自分の人生に大きな変革をもたらすのだとナサニエルは改めて思う。
それだけに彼は名残惜しそうな顔で呟きを漏らした。
「ネル……もう行っちゃうんだなぁ」
彼女と出会ってからのここ数日は本当に楽しかった。
おそらく彼の今までの人生で間違いなく最良の日々だっただろう。
だがそれももう終わりが近付いていた。
仕方のないことだとナサニエルは自身に言い聞かせる。
「でも……いつかきっとまた……」
彼がそう言いかけたその時だった。
前方に……倒れている人影を見つけたのだ。
ナサニエルはハッとした。
それが彼の師であるレギンだとすぐに分かったからだ。
「……えっ? 先生?」
ナサニエルは慌てて前方に駆け出した。
だが突如として道の脇から音もなく現れた人影に足を引っかけられて転倒してしまう。
「うわっ!」
地面に体を打って痛みに顔をしかめながら、立ち上がろうとしたナサニエルの首すじに冷たい刃が当てられた。
そして頭上から聞いたことのない声がかけられる。
「やあ。君がナサニエル君だね?」
その声が聞こえると同時にナサニエルはその声の主と思しき何者かに首根っこを掴まれて強引に引き立たせられる。
そしてその鼻先に刃を突き付けられ、ナサニエルは愕然として目の前にいる男を見た。
そこには長い髪を後ろで一つに縛った、陰鬱な表情の男が立っているのだった。




