第39話 『捕食者の群れ』
「すごいなぁ。ネルは」
頭上を見上げながらナサニエルは感嘆の声を漏らした。
彼の視線の先では身軽に綱を伝って崖を上っていくネルの姿がある。
とても自分には真似できないことだった。
彼女の言う通り、自分も少しは体を鍛えるべきなのだろう。
そんなことを思いながらナサニエルは布に包まれた小人族デイルの頭蓋骨を自分の首に巻き付けた。
この頭蓋骨を向こう岸にあるデイルの家まで届けるのだという強い使命感をナサニエルが噛みしめているその時だった。
ふいに生臭い風がナサニエルの鼻腔を刺激したのだ。
「……何だ?」
ナサニエルは振り返った。
それは先ほどまで漂っていたオオトカゲの臭気と同じであり、すぐ近くに横たわっているオオトカゲの遺骸から漂ってきているのだと思った。
だがナサニエルはすぐにそうではないことに気付く。
朝の光が差し込む中、蠢く無数の影が彼の目に映ったからだ。
ナサニエルは息を飲む。
その視線の先では、多数の黒い生き物がナサニエルに向かって這い寄ってきていた。
ナサニエルは絶望的な気持ちで呻くように声を絞り出す。
「そ、そんな…‥」
今、彼に近寄ってきているのはオオトカゲの群れだったのだ。
よく見ると先ほどのオオトカゲよりは小さな個体ばかりだが、それでもどれも2メートル前後の体長はあるだろう。
そしてその数は十数頭に及ぶ。
「そうか……さっきの大きな奴は親で、その子供たちなのかもしれない……って、そんなことを言っている場合じゃないぞ」
ナサニエルは上を見上げた。
ちょうどネルが崖の半分くらいまで上ったところだ。
ナサニエルは彼女に向けて声を張り上げる。
「ネ、ネルッ!」
その声に気付いたネルが動きを止めて下を見下ろした。
彼女もすぐに状況が分かったようで、急いで上へと再び上り始める。
だがその間にもオオトカゲの群れはナサニエルから十数メートルのところまで迫りつつあった。
彼を囲むように放射状にオオトカゲたちが迫ってきているため、逃げ場はない。
ナサニエルは今すぐ綱に掴まって少しでも上に上がりたい気持ちを抑え、ネルが一刻も早く崖の上まで上り切ってくれるのを待つ。
焦ってナサニエルも上ろうとすると、綱は2人分の体重に耐えられずに切れてしまうかもしれないからだ。
(ネル……早く……早く上って……早く)
ナサニエルは恐怖心や焦燥感と必死に戦いながら今か今かとその時を待つ。
一番先頭のオオトカゲがいよいよ10メートルを切る位置まで近付いてきた。
彼らは親と思しきオオトカゲの遺骸が発する血のニオイに興奮しているのか、口々に不気味な鳴き声を発した。
ウォッウォッと短く吠えるような鳴き声だ。
中には太い尾で地面をバタバタと叩く個体もいる。
「お、親を殺されて怒っているのかな……」
多数のオオトカゲはナサニエルに対して威嚇の態度を見せている。
このままでは自分は食い殺されてしまうのだろう。
多数のオオトカゲに体のあちこちに食いつかれ、引き裂かれるように殺されてしまう自分の姿を想像すると、ナサニエルは恐ろしくて震えてしまう。
こんな時、ネルならば勇気を持って果敢に行動できるのだろう。
自分の気弱さが恨めしい。
そんなことを思うナサニエルの数メートル先までいよいよオオトカゲは迫ってきた。
もう一気に飛びかかられたら一巻の終わりだ。
(もう無理だ!)
ナサニエルの恐怖心が頂点に達し、錯乱状態に陥りそうになったその時だった。
頭上からネルの声が響いたのだ。
「ナサ! 掴まれ!」
ネルが崖の上に上り切ったのだと知り、ナサニエルは反射的に綱に両手で掴まった。
腕の筋力が疲れで落ちているため、自力で上に上ることは出来ない。
掴まっているので精一杯だった。
そんな彼の背後から先頭のオオトカゲが飛びかかってきた。
「うわああああっ!」
ナサニエルが悲鳴を上げたその瞬間、彼の体は上に引き上げられる。
ネルが崖の上から綱を引いてくれたのだ。
ナサニエルの体はどんどん上に上がっていき、地面が徐々に遠ざかっていく。
先ほどまでナサニエルがいた場所にはオオトカゲが一斉に群がり、食らおうとしていた餌が遠ざかるのを惜しむように一様に上を向いて大きな口を開けていた。
ナサニエルは必死に綱に掴まる。
もしここで綱を放して落下してしまえば、自分はオオトカゲの餌となって一生を終えることになる。
それだけは嫌だった。
ナサニエルは歯を食いしばり、恐怖に耐えるために目を閉じる。
すると綱がわずかに回転しナサニエルの体が反転したせいで、首に巻いていた布に包まれた頭蓋骨がコツンと崖の壁面に当たったのだ。
その弾みで包みが解け、中から頭蓋骨が飛び出して宙を舞った。
「あっ!」
ナサニエルは咄嗟に右手を伸ばして頭蓋骨を掴んだ。
布はフワリと宙に舞い、落下していく。
ナサニエルの右手の指がデイルの頭蓋骨の眼窩に入り、何とか頭蓋骨だけは落とさずに済んだ。
しかし両手で掴まっていた綱を左手だけで掴むことになったため、ナサニエルはバランスを崩してしまう。
すると左手がズルズルと滑り、彼の体がガクンと下方に下がった。
「うわっ!」
ナサニエルは慌てて頭蓋骨を掴んだ右手で抱え込むように綱に巻き付いた。
今までは両手のみならず両足を綱に絡みつけて掴まっていたが、綱の下方に滑り落ちたことでほとんど先端部分に手だけで掴まることとなり、両足はブラリと宙に浮いた格好だ。
綱を握る手がこれ以上滑れば、掴み損ねてナサニエルは谷底に転落してしまうだろう。
上からはネルの怒声が響く。
「何やってんだナサ! そんな骨捨てちまえ!」
しかしナサニエルは絶対に頭蓋骨を放すまいと歯を食いしばる。
200年前の小人族デイル。
家族の元へ戻るために孤軍奮闘し、それでも願い叶わず命を散らした彼の無念を晴らすためにナサニエルは何が何でも頭蓋骨を崖の上に持ち帰ると決めているのだ。
ナサニエルは骨を掴んだ右手を綱に巻き付けるように絡ませ、左手で綱を掴む。
そしてそれだけに留まらず、口を開けて綱を強く噛んだ。
文字通り綱に食らいつき、絶対に放さないという決意で目を剝く。
(一緒に行くんだ。向こう岸に。必ず家族に会わせてあげるから)
下からはオオトカゲたちの鳴き声が多重層となって響いている。
それでもナサニエルは恐怖に耐え、ひたすらネルを信じて綱に掴まり続けるのだった。




