第36話 『現れたもの』
「う……うわああああ!」
突如として響き渡ったその声にネルは飛び起きた。
隣を見るとナサニエルがいない。
「何だ? ナサはどこ行った?」
ネルはすぐに立ち上がり、岩の窪みから用心深く顔を出す。
何も見えない。
(さっきの悲鳴はナサだ)
ネルは油断せずに岩の上に上ると、鉈を腰帯から抜き放つ。
そして岩の上から周囲をグルリと見下ろした。
すると……ネルは奇妙なものを目にしたのだ。
岩場から数メートル先の地面を……巨大な何かが這っている。
「何だありゃ……」
そしてその巨大な何かがゆっくりと進む先に、別の何かが動いているのを見たネルはハッとした。
動いているのはナサニエルの頭だったのだ。
その体は岩陰に隠れて見えないが、確かにナサニエルだった。
そして今、巨大な何かはゆっくりとナサニエルに近付いているのだ。
ネルは弾かれたように叫びながら駆け出した。
「ナサ! 逃げろ!」
岩から岩へと飛び移り、ネルはナサニエルのすぐ頭上の岩まで駆けつける。
何やら鼻を突く悪臭にネルは思わず顔をしかめた。
そして岩の上に立つと、すぐ下に座り込んでいるナサニエルに怒声を浴びせる。
「ナサ! なにボサッとしてんだ! 食われるぞ!」
「ネ、ネル……」
頭上を見上げたナサニエルは恐怖で座り込んでしまっていた。
その前方から黒く巨大な生き物が近付いてくる。
それは蛇のように低い姿勢で地面を這っているが、蛇とは違って4本の脚で歩行していた。
その体表は黒い鱗に覆われ、その目はギラギラと黄色に輝き、その口からは赤い舌がチロチロと見え隠れしている。
ネルはそれがかつて見たことのある生き物に似ていると思った。
「オ、オオトカゲか……」
オオトカゲはこの大陸各地に生息している生き物だ。
辺りに漂う魚が腐ったような悪臭は、オオトカゲの体から発するものだとネルは気付く。
だがネルが以前に見たことのある個体は大きくてもせいぜい1メートル程度の体長だった。
今、目の前にいるオオトカゲはそれを遥かに上回る巨体の持ち主だ。
頭から尾の先までの長さは5メートル近くはあるだろう。
あまりにも巨大なそのオオトカゲはナサニエルまで数メートルのところに迫っている。
ネルは鉈を腰帯の鞘に素早く叩き込むと、岩の上を這うような格好で下にいるナサニエルに手を差し伸べる。
「ナサ! 手を伸ばせ!」
ネルの声にナサニエルは必死に立ち上がり、震える両手をネルに向けて伸ばす。
ネルは思い切り手を伸ばしてナサニエルの手を掴んだ。
だがその時だった。
突進してきたオオトカゲがナサニエルの靴の上から足先に噛みついたのだ。
「うぐっ……痛い!」
思わず苦痛の声を上げるナサニエルを、オオトカゲはものすごい力でそのまま引っ張る。
その力は人間のそれを遥かに超えていて、ナサニエルどころか彼の手を掴んでいるネルまで一緒に引っ張られた。
「うおっ!」
ネルは岩の上から転落するが、身軽に空中で身を翻して岩の下に着地する。
しかし弾みでナサニエルの手を放してしまった。
オオトカゲはナサニエルを自分の近くに引っ張り込むと、その上にのしかかろうとする。
「うわああっ! ネル! 助けてネルゥゥゥ!」
「チッ!」
ネルは鉈を抜き放つとオオトカゲに飛びかかり、その首を思い切り斬りつけた。
だがオオトカゲの黒い鱗は思いのほか硬く、鉈はわずかにその下の肉を傷つけるに留まり、深くは食い込まない。
「コイツ……硬い!」
ネルは右手で鉈を握ったまま、左手でナサニエルの手を掴む。
そして彼を引きずるように後方に下がった。
「ナサ! さっさと起きろ! 足を食われたのか!」
見るとナサニエルの靴にはオオトカゲの歯形がクッキリと残っている。
しかし彼の靴はこの地下遺跡での作業に備えて、安全性を高めた硬い革に金属板を埋め込んだ安全靴であった。
「大丈夫。すごい力で圧迫されて痛かったけど、靴は貫通していないよ」
ナサニエルは痛そうな顔をしながらも立ち上がる。
ネルに斬りつけられたオオトカゲは警戒したのか、2人を睨みつけたまま低い姿勢で身構えている。
ネルはナサニエルの手を掴んだまま即座に走り出した。
「逃げるぞ!」
ネルはナサニエルを引っ張って懸命に走り続ける。
弓矢を崖の上に置いてきてしまった以上、鉈と小刀だけであの巨大なオオトカゲに立ち向かうのは出来れば避けたかった。
しかしオオトカゲは簡単には見逃してくれない。
短い4本の脚を素早く動かし、思った以上の速さでネルたちを追いかけてくる。
「くそっ! 追いつかれるぞ! ナサ! 死ぬ気で走れ!」
「足が……足が痛くて……」
「馬鹿野郎! あのバケモンに捕まったら痛むのは足だけじゃなくなるぞ!」
オオトカゲは執念深く追ってくる。
その速さは人の走る速さに比べても遜色なく、こちらが足を緩めればすぐにでも追いつかれてしまいそうだった。
ネルは舌打ちをする。
「チッ! ナサ! このまま綱のある場所まで走るぞ!」
オオトカゲに追われながら2人は懸命に走り続ける。
天井から降り注ぐ早朝の光が少しずつ強くなり、薄暗かった視界が徐々に明瞭になりつつあった。
崖の上から垂らされた綱が見えてくる。
綱の下には昨日、ナサニエルが薄布に包んだ頭蓋骨が置かれたままだ。
ネルは走りながら背後を見る。
オオトカゲは10メートルほど後ろをピッタリと付いてきた。
(あの巨体で持久力もまあまああるじゃねえか。厄介なバケモンだぜ)
ネルは鉈を握る手に力を込めると、走りながらナサニエルに言った。
「ナサ! おまえは先に綱を上れ!」
「えっ? ネルは?」
「アタシがアイツを食い止めねえと、綱を上ろうとしている間に食われちまうぞ! 行け! 絶対に足を止めるな!」
そう言うとネルは足を止めて振り返る。
オオトカゲを迎え撃つのだ。
ナサニエルが必死に走り続ける足音を聞きながら、ネルは鉈を振りかざした。
そして気合いの声を発してオオトカゲに立ち向かうのだった。




