第35話 『ぬくもり』
ネルは夢の中で寒さに耐えるために温かな岩を抱いていた。
体を包み込む寒さの中、その岩を抱いているといくらか寒さをしのげるからだ。
(温かい。こいつは助かるぜ)
そんなことを夢の中で思っていたネルは、抱いている岩が震えるのを感じて目を覚ました。
(夢か……ん?)
そこでネルは愕然とした。
自分がナサニエルの体を背後から抱きしめていることに気付いたからだ。
温かい岩だと思って抱いていたのは彼の体だった。
(何でだ? そうか……寒くてナサの奴にくっついちまったのか。ナサは……寝ているみたいだな)
ナサニエルはピクリとも動かず、死んだように眠っている。
わずかに体が呼吸で上下しているだけだ。
ネルはナサニエルを起こさぬよう、そのままじっとしていることにした。
起こせば彼は間違いなく慌てふためき騒ぐからだ。
寝ている間に空気がかなり冷えてきていた。
朝まではまだ時間がありそうなので、体を冷やし過ぎないようにしたい。
低体温症になってしまうと命の危険があるからだ。
(このまま大人しく寝ていろよ。ナサ)
騒がれても鬱陶しいが、妙な気を起こされても面倒だ。
ナサニエルも男だから、密着しているネルに対して欲情する恐れがある。
正直、ナサニエルに対してネルはまったく男としての魅力は感じていなかった。
ネルは比較的逞しくて少々荒っぽいくらいの男が好きなのだ。
ナサニエルのような優男には魅力を感じない。
(それにしても細い体だな。ちゃんと飯食ってんのかコイツ)
こうして身を寄せていてもネル自身が何ら妙な気にならないのが何よりの証拠だ。
ネルは横たわったままナサニエルの温もりで自分を温めた。
だがそれから数分もしないうちにナサニエルがビクッと身を震わせたのだ。
どうやら目を覚ましたようで、そのか細い声が聞こえてくる。
「ネ……ネル?」
「起きたかナサ。そのままじっとしていろ。寒くなってきたからな。暖を取るためにこうしているだけだ。互いの命を守るためだぞ。妙な気を起こすなよ。アタシはそのつもりはねえからな」
「う、うん……」
そう言うナサニエルは小刻みに体を震わせていた。
ネルは内心で嘆息する。
(これじゃアタシが言い寄って何とかして必死に関係を持とうとしているみてえじゃねえか。まったく嫌になるぜ)
ネルはナサニエルの緊張をほぐすために言った。
「おまえは貴族だからやっぱり婚約者とかがいるのか? ならこのことは黙っておけ。別に悪いことをしているわけじゃ……」
「こ、婚約者どころか恋人もいないよ」
「そうなのか? なら別に誰に悪びれることもねえよ。朝までこうしてろ。ちゃんと寝ておけ」
そう言うネルにナサニエルはコクリと頷いた。
それからしばらくは沈黙が続く。
ナサニエルは時折、身じろぎをする。
眠れないようだ。
ネルはその理由を何となく察して肩の力を抜いた。
(こいつ……単に女慣れしていないだけか。やれやれ)
もしナサニエルが血迷ってネルの体を求めてきたら、力づくで押さえ込んで折檻でもしてやろうと思ったが、ナサニエルにそんな度胸は無いだろう。
だがナサニエルが体を強張らせていると、何だかネルも居心地が悪い。
ネルは少しでもナサニエルを宥めようと、穏やかな声で話しかけた。
「ナサ。おまえ、女は苦手か?」
「苦手というか……どう接していいか分からないんだ」
「なら少しくらい慣れておけ。おまえは貴族だし、色香で騙しておまえから金を巻き上げようとする悪い女がこの先、現れるかもしれないからな」
「慣れるなんて……とても無理だよ。この先も女性と触れ合うなんて経験は僕には無いと思うし……」
「そんなの分かんねえだろ。無理でも慣れるんだよ。身に迫る危機を排除したり回避するには、自分の中に積み上げた経験値が必要だ。その経験値を上げることを怠れば、自分が痛い目を見るだけだぞ」
ネルの話にナサニエルは黙って頷いた。
そんな彼をネルは背中からしっかりと抱きしめる。
「とりあえずはアタシを女として意識しねえように慣れろ。おまえの母親だとでも思え。言っておくが変な気起こしたら容赦なくぶっ飛ばすからな」
無慈悲にそう言うとネルはナサニエルの温もりを感じたまま目を閉じた。
ナサニエルが到底眠れそうにないのをよそに、ほどなくしてネルは眠りの底に落ちるのだった。
☆☆☆☆☆☆
すぐ耳元でネルの寝息を聞きながらナサニエルは必死に自分を抑えていた。
ナサニエルとて年頃の男だ。
こうして女性に身を寄せられていると、身の内から滾るものを隠し切れない。
だが、ネルは彼女自身とそしてナサニエルが凍えぬようこうしてくれているのだ。
彼女とて好き好んで自分などにくっつきたくはないだろう。
そんな彼女の親切心に対してやましい気持ちを持つなど裏切り行為のような気がして、ナサニエルは罪悪感に苛まれた。
ネルは言った。
自分を女として意識するな。
母親だとでも思え、と。
(……母様)
ナサニエルは母の顔を思い出す。
すると次第に劣情が鎮まっていき、ナサニエルの胸に不意に幼い頃の思い出が甦った。
貴族然として厳しい父親。
優秀で何でもそつなくこなす兄たち。
自分だけが貴族らしくなく、いつも感じていた疎外感や劣等感。
しかし母だけはナサニエルの性格や行動に理解を示してくれた。
ある夜、1人の寝室で自分の情けなさに泣いていた幼きナサニエルを訪ねてきた母が、優しく彼を抱きしめて言葉をかけてくれた。
あの夜ほど安心したことはない。
そのことを思い出すと、先ほどまでネルに抱きしめられて感じていた興奮や戸惑いが、安らぎや幸福感に変わっていく。
まるで母の胸に抱かれているような温もりに、ナサニエルは先ほどまでの緊張が嘘のように自然と眠りに就くことが出来た。
「……ん」
それから何時間経ったのか分からない。
空がうっすらと白み始めたようで、地下遺跡にもわずかながら明るさが戻りつつあった。
ナサニエルはふと目を覚ます。
尿意を催したのだ。
彼はネルを起こさぬよう、そっと腕の中から抜け出すと、窪みの外に出た。
空気はシンと冷えている。
風が止んでいるのがせめてもの救いだった。
(ううっ……寒い)
寒さを堪えて岩をよじ登り、岩場の外側に降りるとそこで用を足す。
すると……何やら異様な臭気が漂ってきた。
それは生臭く、魚が腐ったような悪臭だ。
ナサニエルは思わず顔をしかめて周囲に目をやった。
(何だ? このニオイは……)
そう訝しみ、用を足し終えて振り返ったその時だった。
ナサニエルの目の前わずか数メートルのところに……それはいた。
ナサニエルはあまりに信じ難い出来事に目を剥く。
闇に溶け込むような黒い鱗を持つ、巨大な四足歩行の生き物がそこにいた。
「う……うわああああ!」
ナサニエルの悲鳴が虚空を切り裂くように響き渡るのだった。




