第32話 『転落死の恐怖』
ナサニエルが谷底へと転落しかかっている。
その状況にネルは唇を噛んだ。
(チッ。面倒かけやがって)
ネルは内心でそう舌打ちしながら即席の綱を伝ってゆっくりと崖下に降りていく。
こうしている間にもナサニエルを宙吊りにしている命綱はゆっくりと裂け続けていた。
縄が裂けて細く長くなるせいで、彼の体がずるずると下に向かっていく。
もう一刻の猶予もない。
命綱が切れればナサニエルは谷底に叩きつけられて間違いなく即死だ。
命が風前の灯となった彼の顔は恐怖に引きつり、今にも泣き出しそうな顔のまま凍り付いている。
(情けねえ面しやがって。これだから貴族の坊ちゃんは)
ネルは懸命に綱を掴んで下へ降りていく。
ここまで多量の矢を放ってきたため、ネルの体にも疲労が蓄積していた。
両腕の筋肉は張って柔軟性を失い、握力も弱まっている。
ナサニエルの元に向かうため自身の命綱を外している今、綱を掴み損ねればネルも転落して命を落とすだろう。
そうならぬよう気合いを込めて綱を握り、ネルはナサニエルが宙吊りになっている位置まであと少しというところに来た。
「そのままだぞ。そのままじっとしていろ」
ネルはナサニエルに手を伸ばした。
だが……その瞬間だった。
バチンという音と共にナサニエルの命綱がとうとう限界を迎えて千切れたのだ。
「うわっ!」
「ナサ!」
ナサニエルの体が重力に引っ張られて落下する。
ネルは右手で綱を握ったまま、思い切り左手をナサニエルに伸ばした。
彼も必死に両手を伸ばし……ギリギリでネルの左手を掴む。
「うぐっ!」
ネルの左手に一気にナサニエルの体重がかかる。
いかにネルが筋骨逞しいダニアの女とはいえ、今は疲労で筋力が落ちているのだ。
左手だけで成人男性であるナサニエルの体重を支えるのは無理があった。
彼の体重に引っ張られて、綱を握るネルの右手がズルズルと滑るように下へ落ちていく。
「くぅぅぅぅぅ!」
「うわあああっ!」
10メートル近く下がっていくが、それでもネルは右手の綱も左手のナサニエルの手も決して放さなかった。
ネルは綱の節に指を食い込ませるようにして必死に降下を止める。
歯を食いしばりネルは耐えた。
ナサニエルはそんなネルの手を両手で掴んでいるが、恐怖と疲労でもはや息も絶え絶えだ。
「ネ、ネル……もうダメだ……」
「ナサ! 根性見せろ! アタシにしがみつけ!」
だがナサニエル今日は一日、縄を手繰り寄せる仕事を続けてきたせいで腕の筋肉が弱っているようであり、ネルに必死に掴まるので精いっぱいだ。
しかも悪いことにネルが右手で握っている綱も2人分の体重にミシミシと不吉な音を立てて悲鳴を上げている。
ネルはほとんど怒鳴るような声を上げた。
「ナサ! 死ぬぞ! 生きたけりゃ死ぬ気で踏ん張れ! じゃなきゃ何もかもオシマイだぞ!」
「うぐぐぐぐっ!」
ネルの叱咤にナサニエルは必死の形相で歯を食いしばる。
そしてネルの手から手首、腕、肩と手を伸ばして伝い、何とかその体にしがみついた。
それを確認するとネルは空いた左手でも綱を掴む。
「よし! そのまま死ぬ気でしがみついていろよ! 絶対に放すな!」
「う、うん!」
ネルは両手で縄を掴み、必死の上に上がろうとする。
だが……指が綱を滑るようで力が入らない。
腕力はまだ余力が残っている。
しかし……度重なる射撃の影響で握力が相当に弱っているのだ。
「くっ!」
ネルは唇を噛みしめる。
そして一度大きく息を吐いた。
崖の上までは10メートル以上ある。
それがとてつもなく遠く感じた。
こうしてぶら下がっているだけでも体力が削られていく。
(くそっ。まずいぞ。ナサの体を抱えてこれ以上昇るのは無理だ。ナサも体力が限界だし、このままじゃ共倒れだぞ)
ネルは下を見た。
視界は薄暗く、地面はかすかにしか見えないが、谷底まではおそらく数十メートルはあるだろう。
ネルは即座に決断した。
「ナサ。もう少し辛抱しろよ」
そう言うとネルは反動をつけて岸壁に足を付けながら、ゆっくりと谷底へ下がっていく。
上がらなくていい分、腕力的には楽になった。
ネルは見事な体さばきでナサニエルを抱えたままスルスルと下に降りていく。
見る見るうちに谷底が近付いてきた。
ネルは最後まで気を抜かず、ゆっくりと谷底の地面に足を着けた。
長い年月をかけて降り積もった土埃がフワッと舞い上がる。
2人が足を踏み入れた深い谷底は静謐な世界だった。
ネルはすっかり強張った指をゆっくりと開くように綱から手を離すと、ようやくホッと息をつく。
「ナサ。もう大丈夫だ。地面に着いたぞ」
そう言うネルだが、ナサニエルはブルブルと体を小刻みに震わせたままネルから離れようとしない。
「離れろっつうの」
ネルは少々乱暴にナサニエルの頭を掴んで自分から引き剥がした。
「あうっ……」
ナサニエルは強張った態勢のままゴロリと倒れ込む。
ネルはそんな彼の近くにしゃがみ込むと、その頭を平手で軽くはたいた。
「アイタッ」
「この野郎。余計な手間かけさせんじゃねえよ。アタシまで死ぬところだっただろ」
そう言うとネルは革の手袋を外した。
そして周囲を見回す。
天井から差し込む光は薄暗く、谷底はすでに視界が不明瞭になりつつあった。
恐らく後2時間もすれば完全に日が落ちて視界は闇に閉ざされるだろう。
ネルは握力がほとんど無くなりかけている自分の手を見て嘆息する。
「こりゃ少し休憩してまたすぐに上に上るのは無理だな。おいナサ。いつまで這いつくばってんだ。起きろ。今夜はこの谷底で一晩明かすことになるだろうから、寝床を探すぞ」
ネルの腰帯にはあるのは鉈と小刀のみだ。
一方のナサニエルは幸いにして水袋と携行食の袋だけは腰帯に挟んでいた。
一晩くらいならばしのげそうだ。
「火が焚けそうもないのが痛いが、まあ何とかなるだろ」
幸いなのは今は暖かい季節なので、地下とはいえ夜でもそれほど厳しくは冷え込まないということだ。
真冬だったらさすがに火も焚かずに過ごすのは命の危険を伴うだろう。
そんなことを考えているとナサニエルがようやく立ち上がった。
「ネ、ネル……ありがとう……助けてくれて」
ナサニエルは転落死の恐怖が拭い去れないようで、顔面蒼白でガタガタと震えながらそう言った。
その唇は真っ白だ。
ネルはやれやれと頭をかいた。
「まったく。寝不足だからフラフラして崖から落ちるんだよ。体調悪いなら無理せず寝てろ。次はもう助けねえからな」
「う、うん……ごめんね」
これ以上ナサニエルを責めても時間の無駄なので、ネルは仕方なく彼の背中をバシッと叩いた。
「シャキッとしな。寝床を探すぜ」
そう言って歩き出すネルの後にナサニエルは付いていく。
あまりこの場所から遠く離れてしまうと、万が一迷った時に戻れなくなる。
岸壁に垂らした綱が視界に入る範囲で、寝床に適した場所を探そうとネルは考えていた。
だが彼女はすぐに足を止める。
そんなネルの背中にナサニエルはぶつかり、思わず尻もちをついてしまった。
「ネ、ネル? どうしたの?」
そう言って立ち上がろうとするナサニエルだが、ネルの足の先の地面に落ちているものを見てハッと息を飲んだ。
ネルが不意に足を止めたのは……地面に人骨と思しき骨が落ちていたからだった。




