第31話 『油断』
疲労は確実に蓄積されていたが、それでも彼女は集中力を欠かさなかった。
矢を放つ。
それは美しい曲線を虚空に描いた。
この日すでに300を超える射撃になった彼女の一矢は……見事に向こう岸の杭に突き立った。
その勢いで金輪が杭の上からスッポリとはまり込む。
間髪入れずにナサニエルが縄を引くと、鉄の矢は杭から外れて、そして金輪が杭の下まで落ちた。
ナサニエルが歓喜の声を上げる。
「よし! 10本目だよ! ネル!」
そう叫ぶナサニエルに目を向け、ネルは白い歯を見せて笑った。
「とりあえず目標達成だな」
そう言うネルにナサニエルは頷き、向こう岸に通った10本の縄を手で引っ張る。
縄はしっかりと張られていて問題はなさそうだ。
「よし。後はこの縄を5本ずつより合わせて2本の綱に……」
そう言ったナサニエルの体がグラリと揺れる。
何が起きたのかと思ったネルは思わず声を上げた。
「ナサ!」
ナサニエルは不意にふらついてそのまま地面に倒れ込んだのだ。
そして……勢い余って地面を転がると崖の下へ転落していった。
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ゆうべは一睡もせずに弓弦を作り続け、疲労困憊のはずのナサニエルはこの日のネルとの作戦中、不思議とまったく眠くならなかった。
興奮していたからだ。
そしてその興奮は、ネルが10本目の矢を命中させたところで頂点に達した。
喜び勇んだナサニエルは縄をより合わせて綱にするために立ち上がったのだ。
そうして数歩歩いて崖際に近付いたその時、不意に気が遠くなった。
地に足の着いた感覚が消え、気付くとナサニエルは転倒していた。
受け身もうまく取れずに転がり、体が突如として浮遊感に包まれる。
「え……?」
気付くとナサニエルは崖下へと落下していた。
だが、彼が叫び声を上げるよりも早くその体は空中で止まる。
崖際の作業なのでネルもナサニエルも安全のために腰に命綱を巻き、それを杭に結び付けておいたのだ。
そのおかげでナサニエルは崖下2メートルほどのところで宙吊りの状態で止まり、落下を免れた。
「ナサ!」
ネルの声が頭上から響く。
彼女は崖際から顔を出して自分を覗き込んでいる。
転落死への恐怖で心臓は痛いくらいに早鐘を打ち、全身が粟立ってナサニエルは荒い息をついた。
「……はっ……はっ」
「ナサ!」
ネルは地面に置かれているナサニエルの予備用の革手袋をその手にはめ、彼を引っ張りあげるべく命綱を掴んで引っ張り上げる。
「動くな! おとなしくしてろ!」
そう言うとネルはその腕力でナサニエルを引き上げていく。
だが……ブチブチと嫌な音がしてネルは思わずその手を止めた。
ネルもナサニエルも思わず顔を強張らせる。
ナサニエルを助けている命綱が重さと衝撃に耐えかねて裂けかけているのだ。
ナサニエルは恐怖に青ざめた。
(い、命綱が切れる……)
十分な太さの綱を用意したつもりだったが、もしかしたら古くて繊維が傷んでいたのかもしれない。
ナサニエルは上向きに宙吊りになったまま背中の下に広がる虚空に計り知れない恐怖を感じる。
この高さから落ちたら即死だろう。
ナサニエルは今更ながらに自身の体力を過信していたことを悔いた。
興奮によって眠気を感じていなかったものの、体や頭は確実に疲労を蓄積させていたのだ。
睡眠不足と過労から来るふらつきでこんな最悪の状況になってしまった。
作戦の進展という天国から一気に地獄へ突き落とされた気分だ。
「ナサ。そのままじっとしていろ」
ネルは鉄の矢の結び付けられた縄を5本ほど同時に持ち、それをナサニエルに当たらぬよう慎重に谷底に下ろしている。
それは一方を杭に金輪を通して固定した縄だ。
彼女が自分を助けるためにあの縄を使って降りて来ようとしていることが分かり、ナサニエルは声を上げた。
「ネル? 君も危ないよ!」
「黙ってろ。声の振動で縄が切れるかもしれねえだろ」
そう言いながらネルは自分の命綱を急いで外し、垂らした5本の縄を大急ぎでより合わせていく。
そうして即席の綱を作ると、ネルは躊躇することなく縄を伝って崖下へ降りてくるのだった。
☆☆☆☆☆☆
レギンは六角棒を使って出入口の仕掛けを解除していく。
この地下遺跡から地上への出口は17ヶ所。
いずれも扉の役目を果たしているのは仕掛けを施された特殊な岩壁だ。
そしてこの岩壁は、出入口の場所によってそれぞれに仕掛け解除の方法が異なる。
複数の穴に六角棒を差し込むという方法は同じだが、出入口それぞれで六角棒を差し込む順番が定められているのだ。
その順番を間違えると出入口の扉となる岩壁は開かない。
レギンは親から教えられたその順番を完全に記憶していた。
こうして順番を設けることによって、仮に外部の人間が型の合う六角棒を用意したとしても岩壁の扉を開いて侵入してくることはほぼ不可能となっていた。
弟子のナサニエルにも全ての出入口を教えてあるわけではない。
ナサニエルが知るのはわずか数ヶ所の出入口だけだ。
そして今レギンが出ようとしているのは、ナサニエルも知らない洞窟の奥の出入口だった。
「数百年の歴史の中で外部からヨソ者に侵入されたことが一度としてない堅牢な仕掛けじゃ。山賊程度にどうこう出来る代物ではないわ」
長年の経験に裏打ちされた絶対的な自信。
だが、それがレギンにとっての油断だったのだ。
開いた岩壁から一歩踏み出した途端、レギンは足を取られて転倒する。
「おわっ!」
見ると足首に縄がきつく巻き付いていた。
その縄がピンと張られて上に持ち上げられ、レギンの体は頭を下にした逆さまの宙吊りとなってしまう。
そして……慌てるレギンの背後から声がかけられた。
「ごきげんよう。小人族のご老人」
そこに立っていたのは長い栗色の髪を後ろで一つに束ね、陰鬱な表情の中にもギラギラと異様な光を宿した目を持つ男だった。




