第29話 『一歩前進』
ナサニエルは炊事場に入ると竈に火を入れ、それからほどなくして良い香りが立ち昇り始める。
ネルはその香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
1人でいる時は山や川で取った獣や魚を焼いて食べたり、果実をそのまま食べるだけの食生活だが、時折こうして丁寧に人の手が入った料理を食べるのも悪くない。
そんなことを思いながらネルはナサニエルが並べてくれる朝食の数々に舌鼓を打つ。
おいしい食べ物が、そして誰かと共にする食事の時間が、ネルとナサニエルの間で固く絡まった心の糸を柔らかくほぐしてくれた。
自然と2人の表情は柔らかくなり、舌も滑らかになる。
「昨日、夕飯に来なかったらスネてるのかと思ったが、まさか徹夜で弓弦を作っていたとはな。呆れた奴だ」
「でもネルだってあるでしょ? 何かを衝動的にやりたくなって眠れなくなること。ゆうべはそんな感じだったんだ」
「本当はアタシとケンカしてムカついて眠れなかったんだろ?」
「そうじゃないよ。まあ昨日のことは確かにちょっと落ち込んだけど。でも弓弦をもっと改良したいと思ったら、いてもたってもいられなくなって」
それからナサニエルは食事をしながら自分の考えを話した。
昨日1日、ネルの射撃を見ていて、弓弦の安定感を出すための方法をずっと考えていた。
弾力性を失わずに出来る限り安定した射撃を出来る弓弦を作る方法を。
ナサニエルの話を聞いたネルは食事を終えて腹を満たすと、さっそく新たに作られた弓弦を手に取った。
昨日使った弦とは一味違うことが彼女にはすぐに分かる。
「すこしだけ太くなったな。それに……手触りが均一だ」
ネルの言葉にナサニエルはホッとした表情を見せる。
「昨日一晩かけただけの一夜漬けだけど、それでも実際にネルの昨日の射撃を見て、自分で感じた改良点を詰め込んだんだ。弾力性や硬さも均一にして、少しだけ太くしてみた。これなら矢に正しく力が伝わるんじゃないかと思って」
だがそれでも実際に結果が出るかどうかは撃ってみないことには分からない。
ネルはとにかくその弦を鉄の弓に張った。
「おいナサ。眠気はどうだ?」
「興奮してるから不思議と眠くないんだ。ネルこそ疲れはどう?」
「へっちゃらだぜ。せっかくおまえが徹夜で作ったんだ。早いところ試してみようぜ」
そう言うとネルは鉄の弓に張った弦の手触りを確かめながら立ち上がる。
作戦開始から3日目となるこの朝。
若き2人は疲れも忘れて谷間へと向かうのだった。
今日こそは成功を収めるために。
☆☆☆☆☆☆
ネルが鉄の弓に矢を番えるのを、ナサニエルは固唾を飲んで見守っていた。
不安と緊張で心臓が高鳴っている。
(今日こそは目に見える結果が欲しい。せっかくネルが頑張ってくれているんだ。このまま失敗で終わりたくない)
ナサニエルは神に祈る気持ちでネルの射撃を見つめた。
彼女がいつもの美しい所作で弓に番えた矢を放つ。
その矢は……まっすぐに谷の向こうの杭に向かって飛んだ。
そして……矢は杭を掠め、金輪が杭に当たって音を立てる。
「あっ!」
ナサニエルは思わず声を上げた。
矢は地面に落ち、金輪も当然その傍らに落ちる。
失敗だ。
だがこれまでに無かった好感触だ。
「ナサ。ボケッとしてねえで引っ張れ。ハズレだ」
「う、うん。でも今までにない惜しさだし、軌道も安定していたよね?」
ナサニエルは縄を引っ張って鉄の矢を急いで手繰り寄せながらそう言った。
ナサニエルから見ても先ほどの一射は本来のネルの射撃に近く、矢がブレずに飛んで行ったのだ。
これならば命中させることも難しくないのではないかと思わせる一射だった。
「ナサ。新しい弓弦はだいぶマシになったじゃねえか。期待して見てな」
そう言うとネルは次の矢を番えるのだった。
☆☆☆☆☆☆
ネルは5射6射と射撃を重ねる度に自分の感覚を微調整していった。
ナサニエルが徹夜で作った新たな弓弦がその品質を飛躍的に向上させているため、矢がある程度ネルの想像通りに飛んでくれるのだ。
だが的までの飛距離が長いため、どうしても最後の最後でズレが生じてしまう。
そのズレをネルは感覚的に修正し続けていた。
超集中状態となり、ナサニエルの声もほとんど聞こえないほどだ。
ネルは自分でも何回矢を放ったのか分からなくなっていた。
彼女は弓矢と一体化する感覚をひたすら研ぎ澄ませる。
(アタシの声を聞け。アタシと同じ光景を見ろ。アタシの意識と共に飛べ!)
ネルは暴れ馬を制圧するのではなく、暴れ馬に同調する心持ちで矢を放つ。
そしてもう何射目か分からなくなった矢を放ったその時、ネルは鏃が硬い杭に突き立つ音を聞いたのだ。
ナサニエルが何やら騒いでいる。
その声が徐々に大きくなっていく。
「ネル……ネル! 当たったよ! 命中だ!」
ナサニエルの歓喜の声にネルは我に返り、前方に目を凝らす。
すると……向こう岸の杭に矢が突き立ち、金輪が杭に通されていたのだ。
こちらの杭と向こうの杭とを1本の縄が繋いでいた。
それを確認したネルは大きく息を吐き出す。
そして狂喜するナサニエルに言った。
「喜んでねえで縄を引け。慎重にな」
ネルの言葉にハッとして気を引き締め直すとナサニエルは慎重に縄を引く。
縄が引っ張られると向こう岸の杭に突き立っていた矢が抜け落ち、金輪がストンと杭の根元まで滑り落ちた。
それを見たナサニエルは爆発させたい喜びを噛み殺すようにネルを見て言った。
「ネル……やった……やったよ」
「ああ。1本目だな。ようやく第一歩を踏み出したぜ」
そう言いながらネルは今の一射の感覚を思い返し、それを頭の中に刻んでいく。
「ナサ。おまえも疲れているだろうが、この好感触を失くしたくない。このまま撃ち続けるぞ」
「望むところだよ!」
1本の成功が2人の胸に勇気の炎を灯す。
そこから2人は疲れも忘れて夢中になり作業に取り組んでいった。
昼食も食べずに3時間ほど通しで矢を放ち続けたのだ。
その結果……5本の矢を命中させ、5本の縄を谷間に通すことが出来たのだった。




