第22話 『悪戦苦闘』
ナサニエルはネルが鉄の弓に鉄の矢を番え、前方に狙いを付ける様子をじっと見つめていた。
ネルが矢を放つ姿は美しかった。
背すじは伸び、凛とした表情で前方を見据えている。
その所作に一切の無駄はない。
弓矢のことはまったくの素人であるナサニエルにも、ネルがこれまでの人生で数え切れないほどの矢を放って練り上げてきたのが今の姿であると容易に想像がつく。
だが……この2日目が始まってからも、ネルが放った矢はどうしても向こう岸に届かなかった。
少し手前で失速して谷底へと吸い込まれていってしまう。
矢に結び付けた長い縄や金輪の重みが足枷になっているのだ。
朝から矢を放ち続けて2時間。
すでにネルは100本近くの矢を放っている。
その額には玉のような汗が浮かび、頬は熱気で赤く染まっていた。
ナサニエルはすぐに手に持つ縄を引き寄せて谷に落ちていく鉄の矢を引き上げる。
「ネル。少し休憩しよう。疲れでだんだん飛距離が落ちてきているよ」
「……くそったれめ。情けねえ」
そう言ってネルは自身への苛立ちを吐き捨て、弓を持つ手を下ろした。
ナサニエルは彼女を気遣うように手拭いと、水を入れた竹筒を手渡す。
ネルはそれらを受け取ると、柔らかな手拭いで額の汗を拭い、竹筒の水を一気に呷った。
「ふぅ。どうにも上手くいかねえ。そもそも届かないんじゃ話にならねえな」
向こう岸までの距離はおよそ80メートル。
普通の矢ならばネルにとっては問題にならない距離であることは昨日の木の弓矢による射撃によって実証されている。
しかしこれは普通の条件ではない。
向こう岸に届くほどの長さの縄や金輪の重量が乗った鉄の矢は相当に重い。
鍛え上げられた筋力を誇るネルの力でも向こう岸に届かせることは困難だった。
飛距離を稼ぐため、いつもよりも自ずと力が入っていたのだろう。
2時間ほどの射撃ですっかり両腕の筋肉や腹筋背筋が強張っていた。
矢の届く範囲で狙いを的中させるのはネルにとって難しいことではないが、届かない矢を届かせようとするのは物理的に困難だった。
矢の打ち方や射撃角度などを工夫しようとも、谷底から吹き上がる風を利用しようとも、やはり重量が足枷となって飛距離を稼ぐことが出来ない。
(もっと筋力をつければ届かせられるかもしれない。だが今それを言っても負け犬の遠吠えだ)
たとえダニアの女とて筋力は一朝一夕では強化できない。
それに人にはその骨格や背丈に合った最適な筋肉量というものがある。
それを超えて無理に筋肉量を増やすと、体が重くなり骨や関節への負担も増える。
何よりネルにとっての最大の武器とも言える身軽さが失われるのは致命的なのだ。
「ほら。これ食べて」
そう言うとナサニエルは布で包んだ干し果実をネルに手渡した。
それを受け取るとネルは指で摘んでひと齧りする。
甘みと酸味が口の中に広がり、思わずネルはそれを3つほど立て続けに食べると水をグイッと飲み込んだ。
そして地面に腰を下ろすと一つ息をつく。
「ふぅ……小人族の男はもっと焦っていたんだろうな」
ネルの言葉に、ナサニエルは約200年前にここで途方に暮れていたであろう小人族の男のことを思った。
彼は一刻も早く向こう岸にいる家族の元へと戻らなければならない中で、絶望的な気持ちになりながら必死にここで矢を放っていたのだろう。
とても冷静ではいられなかったはずだ。
「しかも彼はたった1人だったからね。気の毒だよ」
そう言って顔を曇らせるナサニエルをよそにネルは立ち上がる。
「アタシらはそうならねえように何とかして矢を向こう岸に届かせるほかねえな」
困難な作業だがネルは少しも意気消沈していなかった。
それどころかより燃えてきた。
意地でもこの難業をやり遂げるのだという決意が腹の底から湧き上がってくる。
「ナサ。もう一度だ。昼飯前に終わらせるぞ」
そう言うとネルは崖のギリギリまで前進し、そこで弓に矢を番える。
2人とも念のため命綱を体に巻き付けているとはいえ、ナサニエルは思わずヒヤヒヤしながらネルを諫めた。
「落ちないように気を付けて。もし命綱が切れて落下したら、いくら君でも助からないから」
「心配すんな。そんなマヌケはしねえよ」
そう言うとネルは虚空に向かって再び鉄の矢を放つのだった。
☆☆☆☆☆☆
「兄者。どうも赤毛の女と貴族の坊やは洞窟に隠れ潜んでいるようだ。今頃は暗がりでよろしくやっているんじゃないか?」
戻って来た弟の言葉にデクスターは目を吊り上げた。
足跡から赤毛の女らが逃げ込んだと思しき洞窟を発見したアドルフは、出口に5名ほどの部下を見張らせ、残りを連れてデクスターの元へと戻った。
「洞窟だと? よし、今すぐ全員総出で向かうぞ。袋のネズミにしてやる」
「待ってくれ兄者。洞窟内はかなり分岐が細かくて、下手打つとこっちが迷っちまう。俺に任せてくれ。兄者は洞窟の外で待ち構えて、もし女たちが出てきたらそこを捕らえてくれ。それと、もしかしたら他の協力者がいるかもしれねえから注意してくれ」
「あまり時間はねえ。街のネズミからの報告だと、2日後には巡回兵団がこの山に入る。おそらく俺たちのことも報告がいっているはずだ」
兄の言葉にアドルフは静かに頷いた。
「それまでにはカタをつけよう」
そう言うとアドルフは自身で厳選した部下たちを連れて、デクスターと共に再び洞窟へと向かうのだった。




