第17話 『挑戦初日』
午後の陽光が西に傾く中、近隣の村からアジトのある山に向かって部下1人と共に馬を走らせていたアドルフは、馬を休ませるために水場で休憩を取っていた。
農場主とその娘を殺した村からすぐに移動を始めたため、部下の男とはロクに話をしていない。
アドルフは川原の大きな岩に腰を掛け、近くに控えている部下に声をかけた。
「ダニアの女が現れて、そして取り逃がした経緯を詳しく聞かせろ。山に戻ってからなるべく早く動けるようにしておきたい」
「は、はい。最初から説明しますと……」
デクスターが最近目を付けた貴族の青年ナサニエルを部下たちに誘拐させたところ、その途中でダニアの女に邪魔されて部下2人が殺され、ナサニエルを取り逃がした。
その後、怒り心頭のデクスターは山賊らを率いてダニアの女を包囲したが、そこでナサニエルがダニアの女に救いの手を差し伸べ、2人はまんまと逃げ伸びたという。
そのため山から2人を逃さぬようデクスターは各所に兵を配置させた。
部下の男はデクスターの命令ですぐにアドルフを呼ぶべく山から出てきたため、彼が知っているのはそこまでだった。
「そのナサニエルってのは1人でダニアの女を救ったのか? ただの貴族の坊やだろう?」
「そうなんですが山で木こりや石工を相手に商売しているらしく、かなり山のことに詳しいそうです」
「なるほど……その坊やの背後関係をよく知っておく必要があるな。ダニアの女を山のどこかに匿っているなら、その坊やの情報を知らないまま探すのは愚かなことだ」
そう言うアドルフに山賊の男は厳かに頷いた。
彼は知っている。
アドルフがただの殺人鬼などではなく、軍で得た知識や技術を持つ優秀な狩人であるということを。
アドルフが山に戻れば間違いなくダニアの女の居所を割り出し、非情な刃でその心臓を貫くだろう。
その刃が自分に向かぬよう、男は自分が知る限りのナサニエルの情報をアドルフに話して聞かせるのだった。
☆☆☆☆☆☆
「くそっ……」
ネルは自身の放った矢がまたしても谷の底に吸い込まれていくのを見てそう吐き出した。
ナサニエルが急いで縄を引いて鉄の矢を引き戻す。
その動作もすでに100回を超えており、ナサニエルもその顔に疲労の色を滲ませていた。
数時間に渡ってネルは100回以上の射撃を行った。
鉄の矢は徐々に飛距離を伸ばしたが、それでもまだ向こう岸には届かない。
縄と金輪によって加算された重量を克服できないのだ。
そうこうしているうちに頭上の天井の亀裂から差し込む光が弱くなってきた。
地上が日暮れを迎えようとしている。
「今日は時間切れだね。ネル」
ナサニエルの言葉通り、すでに向こう岸は薄暗くて見えにくくなっている。
もう後30分もすれば完全に暗闇に包まれて見えなくなるだろう。
ネルは仕方なく弓を下ろした。
「チッ。仕方ねえ。思ったより苦戦しそうだな」
ネルがそう言ったのは鉄の弓矢の重量を腕で支えて、なおかつ向こう岸に届かせるためにかなり力を入れて矢を放ったため、両腕がかなり疲労しているという理由もあった。
(チッ。情けねえ)
ネルが情けないと思うのは今の疲れた体のことではない。
気付いたのだ。
自分はどこかで己の弓の腕が完成されていると慢心していた。
だからその完成度を崩さぬために、自身の感覚が狂うことを嫌ったのだ。
そんな自分に苛立った。
(アホかアタシは。小さくまとまっていたら、これ以上成長するわけがねえ。もし今この手に鉄の弓矢しかなく、敵に襲われたらどうする? いつもの木の弓矢だったら勝てたとみっともない言い訳をしながら死んでいくのか?)
ネルは知っている。
昨日の自分よりも強く優れた自分になるためには、昨日まで築き上げた技術を壊してでも更なる進歩に向けて努力する必要があることを。
「明日は必ず成功させるぞ」
自分自身に言い聞かせるようにそう言うネルに、ナサニエルは大きく頷いた。
「今夜はしっかり休もう。食事を用意するから小屋で休んでいて」
そう言うとナサニエルは急いでレギンの工房の方へ戻っていった。
ネルは鉄の弓を手に作業小屋へと戻っていく。
1日で簡単に攻略できるかと思ったが初日は失敗に終わった。
弓矢に関することでこのような敗北感を味わうのは随分と久しぶりのことだ。
彼女はふと思った。
かつてこの弓で同じように向こう岸に橋を渡そうとしていた小人族も、1日の終わりにこのような敗北感を胸に小屋へと戻っていったのだろうか。
ネルは立ち止まり、振り返る。
そして暗闇に沈んでいこうとしている向こう岸に目を向けた。
それから鉄の弓に目を落とす。
「おまえの元の主人は何で向こう岸に行きたかったんだ?」
そう言うとネルは何も答えぬ鉄の弓を握りしめて、今夜の寝床となる小屋の敷居を跨ぐのだった。
☆☆☆☆☆☆
「ほれ。これでも食って精をつけろ」
そう言って作業小屋に入ってきたのはレギンだ。
ナサニエルが食材を取りにレギンの工房へ向かうと、レギンも付いてきたのだ。
肉の塊を持参して。
「今朝取れたばかりのイノシシの肉だ」
レギンの背後には野菜やら調理道具を詰め込んだ大きな袋を担いだナサニエルの姿があった。
「先生に話したら一緒に食事したいって」
そう言うナサニエルにネルは笑った。
「デカい肉だな。ご馳走してくれるなら大歓迎だぜ。じいさん」
そう言うネルにレギンはニカッと笑みを見せ、ナサニエルが用意した調理道具で手際よく肉を捌いていく。
その間、ナサニエルはこれまた手際よく鍋に湯を沸かし、野菜を煮込んでいった。
日頃からこうして2人で食事を作っているのだろう。
彼らは慣れた様子で分担して調理を進めていく。
ほどなくして良い匂いが漂い始め、ネルの空腹を刺激した。
その後、イノシシの肉と野菜を煮込んだだけの豪快なスープが完成した。
単純な味付けだが、疲れた体に塩味が利いて驚くほどうまかった。
食事を終えて一息つくと、ナサニエルはネルのために風呂を沸かすと言って、小屋の裏に併設されている欲場へ向かった。
「風呂まであるとは本格的な住まいだな」
半ば呆れてそう言うネルにレギンは言った。
「ナサニエルの奴はこの仕事に入れ込んでおるからな。何日もここに籠って道具を作っておった」
「あいつ。何でそんなに向こう岸に行きたいんだ? 何か貴重な宝でもあるのか? 貴金属になる鉱石とか」
ネルの問いにレギンは茶を一口飲むと深く息をついた。
「もっと単純な理由じゃよ。知りたいんじゃろ。向こう岸に何があるかを」
「知的探求心ってやつか」
ネルの数少ない友人の1人に勉学に励む秀才がいた。
自分とは最も合わない類の人間だとネルは思ったが、共に危機を乗り越えた冒険の果てに友となったのだ。
ナサニエルを見るとどこかその秀才と同じ匂いを感じる。
「いや……少しばかり違うかもしれんな」
そう言うとレギンは立ち上がり、部屋の隅の机に置かれた書物を手に取った。
この小屋の住人だった小人族の残した日記だ。
不思議そうに片眉を上げて見せるネルの前に座ると、レギンはそれをパラパラとめくった。
そしてその内容を語るレギンの口から紡がれたのは、小人族がどんな思いでこの小屋で孤独な作業を続けていたのかという過去の物語だった。




