第11話 『地下世界の深い谷』
「ネル。僕が頼もうとしていた仕事なんだけど、実はこの遺跡の中での仕事なんだ。君を川向こうに連れて行く途中にその現場に寄るから、見るだけでも見てくれないかな」
レギンの工房で茶を飲み終えて雑談も一段落すると、ナサニエルはネルが席を立とうとする気配を察して先にそう言った。
ネルは面倒くさそうにしながら、ナサニエルから受け取った翡翠の指輪のことを少し考える。
互いに助け合って貸し借りなしだから、この指輪を受け取ったままだとネルのほうが貸しを作っていることになる。
彼女は嘆息した。
「地上に出る道の途中なんだな? わざわざ遠回りしないのなら、見るだけ見るのは構わねえよ。ま、仕事は引き受けるつもりはねえけどな」
そう言うとネルは立ち上がる。
そしてレギンに目を向けた。
「邪魔したな。じいさん。茶をごちそうになった。ありがとよ」
「何じゃ。もう行くのか? もっとワシの拵えた物を見せてやろうかと思ったんじゃが」
「もう十分さ。いい矢を見せてもらった」
「そうか。まあ縁があればまた会うこともあるじゃろう。達者でな」
「ああ。じいさんもな」
そう言うとネルは踵を返して歩き出す。
同行するナサニエルがレギンに声をかけた。
「では先生。彼女を東の出口まで送ってきます」
「ああ。そういえばナサニエル。おまえ指輪はどうした?」
「え? あ、あれは家に置いてきました。デクスターたちがこの山に姿を見せるようになったので、あまり金目の物を持っていると良くないと思って……」
小声でそう言葉を濁すナサニエルにレギンはふむと頷く。
そしてナサニエルは足早に工房から出てネルを先導し、歩くのだった。
☆☆☆☆☆☆
古代の小人族たちが暮らしていた遺跡の街並みの中を1組の男女が歩いていく。
「勉強になったよ。ネル。僕の作った矢は使い手のことを考えていない1人よがりな物だったんだ。もっと精進しないとな」
そんなこと話しながら先を進むナサニエルの背中にネルは声をかけた。
「おい。ナサ」
「なに?」
振り返ったナサニエルにネルはある物を投げて渡した。
ナサニエルは反射的に慌ててそれを受け取る。
手にしたそれは翡翠の指輪だった。
先ほどネルがナサニエルを助けた報酬として受け取ったものだ。
「え? これはさっきの報酬として君に渡したんだけど……」
「おまえもアタシを助けたんだから貸し借りなしだ。それに……面倒なもん寄越すんじゃねえ。アタシは別にこいつがなくても困らねえが、おまえは困るんだろ」
ネルは先ほど別れ際にレギンとナサニエルが交わした会話を聞いたのだ。
そしてネルが受け取った指輪がおそらくナサニエルにとって大事なものなのだと勘付いた。
指輪というものが単なる装飾品ではなく、それを持つ者にとって重要な意味を持つことはままある。
指輪を始めとする装飾品の類を一切身に着けないネルにもそれは分かるのだ。
「事情は知らねえが、それはいらねえ。何か気持ち悪い」
「き、気持ち悪い……そ、そうだね」
他人の情念が込められた指輪を一時とはいえ持つのは気持ちが悪いというのが本音だ。
持っていて気持ち悪いものは持たないに限る。
そんなことを思うネルをよそに、ナサニエルは手にした翡翠の指輪を見つめていた。
その目に浮かぶのは親愛の情だ。
「ネル……実はこれは家を出る時に母さんがくれた物なんだ」
「ああ。そうかよ」
「うちは貴族でも小貴族だから、三男坊に渡してやれる財産はない。だからせめてこれをって」
「どうでもいい。おまえの家の事情に興味はねえ」
つれなくそう言うネルにナサニエルは苦笑して指輪を指にはめた。
家族の愛情とは無縁の人生を生きてきたネルに、父や母を思う心は分からない。
だが、世の中には家族を守るために自分の命を投げ打つことも厭わない者がいることは実際にその目で見てよく知っている。
ネルの脳裏に浮かぶのはかつての友の顔だ。
美しい金色の髪を持つ彼女は自分の弟を守るために危険な旅にその身を投じた。
たった1人で。
まっすぐに自分の気持ちを相手にぶつける生意気な少女だった。
だが彼女は捻くれ者のネルに対しても真正面から堂々とぶつかってきたのだ。
そしてネルのことを友と呼んだ。
臆面もなく。
自分の人生に友など出来ないものだとネルは思っていた。
なぜなら自分は友を欲しがっていなかったからだ。
そして他人とはいがみ合うことはあっても、分かり合うことなどないと思っていた。
だがそんな自分の価値観を彼女はぶち壊したのだ。
その経験がネルに教えてくれた。
自分の価値観など、他人の気持ちや振る舞い一つであっさりと変わってしまうこともあるのだと。
もしかしたら今目の前にいるこの優男ですら、ネルを大きく変えてしまうかもしれない。
(そう考えると……ナサを助けたおかげでこうして見たこともない古代遺跡を目の前にしている。あの時こいつを見捨てていたら間違いなく見られなかった光景だ。余計なことに首突っ込むのも案外悪くねえかもしれねえな)
ネルは少し足を速めてナサニエルの隣に並び立つ。
自分よりも背の低い貴族の青年はいかにもひ弱な感じだったが、そんな彼はネルの知らない多くのことを知っているのだ。
他人から得られることはいくらでもある。
今回のことでネルにはそれがよく分かった。
(ま、何でもかんでも首を突っ込むつもりはねえが、これはこれで良かったってことか)
そんなことを考えるネルの前方から不意に冷たい風が吹いてくるのを感じた。
ナサニエルが足を止める。
「ここからは気を付けて。この先には深い谷があるから」
ここは地面の下なので暗く、松明の明かりが届かない範囲は見通せない。
こんな地下にそれほどの谷が存在するのは驚きだが、目の前から吹いてくるのが渓谷などでよく感じられる谷風だとネルも理解していた。
ナサニエルは松明を手に慎重に暗闇の中を進む。
すると一定間隔で石の灯籠が立ち並んでいるのが見えた。
その灯籠には太めの蝋燭が据え置かれていて、ナサニエルは順番にそれに松明の火を点けていく。
蝋燭は真新しいものであり、灯籠が今も現役で使われていることを示していた。
そうして灯籠に火を入れながら進むうちに、道は左に曲がり始める。
すると進むほどに前方が徐々に明るくなり、暗闇に沈んでいた光景が浮かび上がってきた。
ネルはふと頭上を見上げる。
「光が……」
思わずそう呟くネルに、ナサニエルも頭上を見上げた。
「この先の天井に亀裂が入っていて、地上に降り注ぐ陽の光がそこから差し込んでくるんだ。もう少し行くとこの松明がいらなくなるくらい明るくなるよ」
彼の言葉通り、視界は徐々に明瞭になっていき、目の前の渓谷を鮮明に浮かび上がらせていく。
そこには地下渓谷が広がっていたのだった。




